閉じられている

物語を演出するためには、ある明確な枠組みがなければいけない。
ある程度なら、閉じられていることを悟り、より上層に達することも刺激的ではある。
「黒幕がいるのではないか? 俺たちは躍らされているのでは?」
というのは物語としてありだが、「黒幕とはプレイヤーなのでは?」「俺たちはキャラであると同時に読み手なのでは?」となると、ふつうには興ざめだ。もちろん、そこにあえて挑む意欲作には感心を覚えることもあるが。
ものを考えるときでもそうだ。たいてい、真剣に考えることは、閉じられた問題意識のなかで醸成される。
なんのために勉強するのか? 何を勉強すべきなのか? これを初等教育と高等教育というシンプルな対立で考えたとき、後者の専門性や選択性、つまりは個性を前提した教育のあり方に対して、あらかじめ価値観が規定されている初等教育は狂気にさえ映る。しかし、ここに職業という項目を加えたとき、そこには社会や会社による価値観の規定と、スパイスとして機能させうる個性の、折衷的な価値のあり方がうかがえる。このとき、初等教育と高等教育における狂的な問題意識は消失する。なぜなら、しょせんは……そのときの、職業のための段階的な教育の一側面に過ぎないのだから。
大学を基準に考えて、小中高は狂っていると叫ぶ。ある閉じた枠組みにおいて、この真摯さはもっともだ。しかし、枠組みを広げたとき、少なからぬ程度で、社会もまた狂っているといわざるをえない。となると、どこか自分はオカシイのだと思うしかない。あるいは、社会こそがオカシイのだと。
視野狭窄だ。偏屈したものの見方だ。世間知らずめ。そういう批判はもっともだ。とはいえ、そういうことに当てはまらないひとは、そういうことをおっしゃらないひとだと思うが(笑) たいていの場合、こういうのは不可逆なんです。もちろん思考することはできる。それはシミュレートやトレースという域で。ならば、閉じたままでいい。もうしばらくは。