引きこもってネットしながら音楽聴いてめし食らう妄想に適合した生活を継続するよりも

窮屈な椅子に座ってよくわからんオッサンの話を聞きながらあらかじめ答えが想定されているであろう問題にむずかしいなあーそういうことかーとみせかけの苦労を満喫しながらほどよく脳みそを回転させたほうがよっぽど健康的なのだと、いざ登校すると思ってしまうものだ。価値というもののあり方を疑うとき。
だから何も考えずに「真面目に」勉強すればいいのだ、というのが一般論だし、「冷静に」考えてもそういう理屈はみちびかれる。ならば考える=悩む=ウダる=グダることに価値がないのかといえば、それは言い換えの度合いによるのだろうか、いやそれは本質でない、どの段階においても、それは考えることの価値を問ううえで意に介すべきでない。なんのことやら……。
要約していうと、動物として活発な生活と、脳みそとして豊満な妄想の、どちらに価値をおくかということなんだけど。