金銭コストと時間コスト

コストといえばお金。だったから、時間コストという言葉を聞いたときはびっくりした。時間の、コスト。はじめてのケミストリーだった。
日々に時間というコストを費やしている。家でパソコンの前に座っているときもそうだし、授業中につまらない話を聞いているときもそうだ。生活におけるあらゆる局面で時間コストのパフォーマンスは振れている。時間割という習慣に洗脳されてそんなことにも気づけなかったようだ。
しかし、なぜ時間コストはこうも(僕にとっては)気づきにくいものなのか。それは、時間というものがつねに質という観点から問われるからだと思う。大事なのは集中だ、といって、ある時間を有効に遣うことは発想できる。しかし、そもそもの「ある時間」に対する疑問には至らない。
たとえば、集中して先生の話を聞こう、と考えることはあっても、授業をサボってまったくべつのことに時間を活用しよう、とはなかなか思い至らない。
一方で、お金というのは数量的に評価されやすい。いくら遣ったか、ということが問題であり、ある金額を何に遣うか、というのは贅沢な悩みである(表裏一体な面も多い)。しかし、あくまで比較的に、という話で、金銭コストを質の観点から問うことはけっして後ろめたいことではない。
同じ金額なら、よりしあわせを感じることに遣えばいいし、遣うしあわせと遣わないしあわせが同程度であるとしたら、遣ったほうが社会的なしあわせに通じる。遣うことを前提に、つまりお金の数量的なコストを仮定して、その質という観点から金銭コストを考えることはしあわせのために重要である。
数量的な観点に偏りやすい金銭コストと、質的な観点によってコストという評価基準に気づきにくい時間の、それぞれの特性を絡め合うようにして、より戦略的なコスト意識を心懸けたい。