イヤです

夏休みの宿題なんて僕はやらなかった。小中学生のころはやっていたけれど、図画や作文のたぐいは親にやってもらった。どちらも手のつけようがない。絵の描き方、文章の書き方なんてさっぱりわからない。後者に関しては、常識的なセンスは身についたはずだが、べつに練習したわけではない。なぜいま文章を書けるかのほうが疑問である。
高校生になると問題集のたぐいもやらなくなった。ちょっとくらいはやったような気がする。やらなくても問題はなかった。それはきっと気のせい。
小中学生のころは、勉強をサボるという発想に目が向かなかった。勉強をしないことが楽しいことだと思わなかったからだろう。かといって、高校生になって勉強しないことを楽しむようになかったかということ、単に勉強することが嫌になっただけである。
学校の勉強をするということは、社会的にどのような意味をもつのか。学校は社会ではないと断言すれば、そんな意味はないということになる。では、学校的にどのような意味をもつのか。この学校的なる感覚は生徒にしかわからないものだ。親にはけっしてわからない。同様に、生徒に社会的な感覚はわからない。だからなんだ。
図画・作文を親に丸投げしたことで僕に悪い影響は出ただろうか。そもそも、図画・作文に取り組めないという、その時点で、僕はデキが悪かったのだ。ここでがんばらされても仕方がない。絶対に、自分ではやらなかった。
個人的な話をする。親にやってもらうことで、課題を提出することが厳守される。そのことによって、約束を守ることの重要性はからだに染みつくかもしれない。ある目標(宿題を出さなければならない)を満たすために、できないこと(できない宿題)を放棄することは、その目標に価値をみる限りで有意義である。つまり、宿題をやることではなく、宿題を出すことを重視するのなら。
しかし、そのようなサポートがずっと続けられることはない。だから、目標は消失する。また、その目標を満たすために必要なこと自体(宿題をやること)が目標として要求されたとき、どうしようもない。
僕にはできないことがある。それをどうしようとも思わない。