雲の上

インターネットはスゴイものを簡単に提供してくれる。スゴイものとは、スゴイことをのせた何かである。スゴイものを手軽に楽しめるネットはスゴイことに対する不感症を引き起こしたりするのだろうか? なんらかの経路をとってそれは起こりうる。けれど、逆に増え続ける刺激に打ち震えることもある。それが具体的な行動に結びつくかはさておき。
ネットはスゴイことを加速させる。スゴイことはすごくスゴイことになる。すごくスゴイことを載せたすごくスゴイものはネットに身を乗せて空を駆けめぐる。この世界は、発達と認識の距離が限りなく小さい。ある事実とその常識が限りなく近い、ともいえる。
ふつうは、ある物事があり、その物事に対して情報がある。その情報に関して、その存在を知らないということを、知るすべはない。
だから、知ることから目を背けたとき、ヴァーチャルはたかがリアルと対等に落ちる。加速とは必然であり、失速は墜落を意味する。
ああ、スゴイことに目を回されるのが精一杯。自分に何ができるのかなんてわからない。自分に何かができるのかすらわからない。
ばくぜんとすらつかめていない。風を切って生きることが本当にしあわせであるか、なんて。
いつでも墜ちてしまっていい。どうか加速を志そう。墜ちてしまうそのときまでは。
たかがこの自分、あらゆる入出力をモニタリングしてログすることは凡庸の沙汰に過ぎない。それでも、回転を上げる原動力としては十分だろう。スゴイひとにやられてはひとたまりもない。比べるのも恐れ多い。
ところで、意図に対する解釈とは何か。何も意図されていないものに意味を見出すことはよくある。ウェブに日記を書いていれば/ウェブで日記を読んでいれば、だれでもわかる。かといって、意図から外れた解釈は意味がないか? 答えはひとの自由だが、そんなばかげたことはないと僕は思う。逆に、意図されたことを汲み取れなかったとしても、咎めるには及ばない。意味は捏造できる。その意味は、孤高の味である。

ネットで人生、変わりましたか?

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クレィドゥ・ザ・スカイ―Cradle the Sky

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