何もなかった

10分間で適すとプレイをしてみるといっても最近は文章を書いていないのですぐに途切れてしまうことが心配でしょうがない。というかこれタイプミスとか変換で入力のスムーズさにものすごい影響がでるよなあ。脳をそのまま出すとかそういうのとは違うし、焦ってタイプミスしたほうが猶予が大きいという奇妙なバランサーがはたらく。それでなくても、変換のうまさっていうのはすごく大きい。ぶっちゃけこの精度の変換だとテキストプレイどころではないのでいっそ変換を無視すべきではないだろうか。それができないのはそれだけのブーストに脳がついて行かないという不振によるのだろうが、きちんとした字面によって思考が引き出される側面を否定でき以内のでいいかもしれない。いよいよ変換がだめになってしまった。っていうかそういえばバックスペース禁止だっけ、テキストプレイ?タイプミスは? ソレを修正できないとあまりに見苦しく、またそんなものがはやるのだろうが。書けない書けない書けない。コンテンツとはそのおもしろさとはなあわわわわあわわわあわわわわあわわわわわあわわわわ。ねたがない。見たものを書くしかない。時計。コップ。マウス。マイクロソフトロジクール。双、バックスペースというのは書き直しが禁止という意味が主だろう。書き成さないことは普段文章を書く上では重荷になるかもしれないがこのように書いている場合先のことなんてきにしてなられないのでむしろバックスペースするほうが難しい。もうちょっと身のあることを書いたほうがいい。仕事についてとか、そのへんの価値観のことを。宿題がいやだ。第二外国語を勉強するのは大学生として極めて自然なことだと思っていたが、そんなおろかなことはない。教養が大切というのはもっともだ。しかし、教養というものは教育可能なのだろうか。教育という枠の外にこそ個人がつかみとるべき教養があるのであり、教養とは勉強しないことを含んだ勉強にほかならない。だから大学なんて専門教育だけしておけばいい、というたまに聞く意見にすごく同意しているのがいまである。もちろん自分では絶対やらないであろう勉強をさせられるというのはナニカに役に立つかもしれない。きっと立たない。自分で何をやるだろうか。その反面にある、というか、ない、やらないことによってどういう不利益を得る、というか失うだろうか。ひとりの人間にできることに限りがあるのは大人というか社会人のかたにとってはもはや前提で、そのうえでできないことっていうかやりたくないこと、やらないことに対してどう向き合うかが大切なのだが、かといってやりたくないことはやらないぞ。それがどこまでがわがままで、どこまでが自己実現の手段として認められるというのか。それはひとの数だけつまりは価値観の数だけあると思ったけれど、ひとがみんな価値観をもっているというのは幻想だろうか。しねしねいしえんしね。ハードディスク。すいすいすーすー。わっせらー。なんていってんだこれ。わっせわっせわっせーら。すいすいすーすー! すーすー! すいすいすいすしすいすいすしうふぃうぇさjふぉえじぇふぁf。あj。fじゃいlsfじょあうぇjすいすいすーすーsfjわぽwfああqwせdfrgtyふじこlp;@:「」定時退社定時退社けーね!けーね! 角! 角にリボン! かわいい! 髭にリボン! リボン! リボーン。謝肉祭。謎。トイレットペーパー。トイレットペーパー活用術を考える。食べる。煮る。焼く。あえる。ごま油であえる。キムチと炒める。ドレッシングをかける。CDでフリスク、じゃなくて、なんだっけ、フリスピー。小学校のパソコン教室でそれやってCD割ったわ!ははっ! 空飛ぶ円盤。UFO。UMAUMLモデリング。ラングアゲ。中身がない。チョ心根の中身。たまに変なものが出てくるチョココロネキーアクセ。変なものって? それは、うんこです。あfだwlfじゃうぃえfじゃい