おysm

形式と意味の違いとは何だろうか。意味は融通が利く。柔軟である。
高校生のころから256Mbyteのmp3プレーヤを使っている。枕元でネトラジを聴きたいという動機が強くて、Amazon.co.jpで5000円強ほどで購入したものだ。高校から帰宅するときにコレで音楽を聴きながら雪道を歩いていたのを思い出すのは、ぜんぜん別の話。
たくさんの曲をぶち込むということはできない。聴きたい曲は日々時々に移り変わるから、さきほども新しくファイルを転送し直したところだ。お通じとともに音楽を聴いていたらとてもしあわせだった。風呂に入るつもりだったが、このままお尻を拭いてベッドに倒れ込みたいと思った。
寝る前に風呂に入らないと生活のリズムが崩れる。いまはまだ、といっても残り僅かなこの夏休みにおいては、被害は少ない。それとは無関係に、この判断が引き起こす結果に対する評価は度重なる反省により明らかである。
抑圧とか、閉塞とか、を感じることがある。抑圧とか、閉塞とか、と感じることがある。人間は認識に支配されたイキモノだ。認識を切り替えることでみえるものが変わる。だから切り替え方を設定する。この時間はこのためにと。いざ抑圧が解かれたとき、この設定に対する疑いが芽吹く。
判断とはなんだろうか。もし問題という錯覚を根拠に成立する論理の副作用であるなら、判断とはその存在そのものが問題であるということだ。
しかし逆に考えることもできる。判断のない状況、つまり問題のない状況こそが問題であるということ。
これで正しい、これがきもちいい、いまがしあわせだ、という感情は先をみえなくする。
このまま聴いていたい。もっとゆっくり聴きたい。なぜなら、いまこれから以上にコレからこれほどの幸福を引き出すことはないからだ。それは、たとえば明日何時に起きて、いつどんなときでも使える記号をもって目標を掲げることに比べて、固有で唯一の価値をもつ。
どちらこそが問題なのか。それに答えを出したくない、というのが本音である。なぜなら、この文章を書きはじめたところで、僕は判断のない状況に陥ったからである。判断を捨てたときから、それは始まっていた。きっと、後悔する。
特殊なことに、それでも書くことは判断として表出される。もちろん完璧ということはない、程度の話だけれど、これはすべて形式であるからだ。
問題に対する判断は問題に依存するということ。問題、つまり背景が変わることで判断が解ける。それが望ましいか、という感触は、意味に依存する。だから、判断は判断に支えられない。その事実もまた意味に委ねられ、形式から意味への軌跡はまもなく消失する。何も残らず、観察はされえない。
その意味においては、書くことは特別である。
だからといって、それが観察される運命を約束されるわけではない。ただ目先のしあわせに溶け込んで、意味だけが残る世界を認識する。