取扱啓蒙書

あるモノがあったとして、その意味が社会的に成立することは明らかだ。
言語的、経験的、伝統的、などと言い換えてもいいし、それでもニュアンスを満たしきれない。
そこにティッシュがあるとき、この生活にどのような意味をもつか。それは直感の与り知るところでありながら、過去に積み重ねられた意図と工夫の堆積のうえで成立している。
名前があるものはよぶことができる。何かを指したければ定義すると便利だ。しかしそれはきっかけに過ぎず目的に足らない。名前は、その指し示すものの背景へと通じる扉を開く鍵ではないからだ。
あるモノは生理に訴えかける存在感をもってその意味を知らしめる。またあるモノは使われ、みられ、まねられることで存在証明する。
何がすごいの? 名前がすごいの? そのデザインが? 使うひと? そんなことに答えを絞るのは適わない。
「そんなものはただの布に過ぎない」「ただの骨と板だ」「紙束だ」「棒だ」「球だ」たったそれだけのことで語りうる造形のどれだけ多く、そしてそのあり方もまたどれだけ多様で、人類という物語のなかでどれだけ壮大な歴史を示すものだろう。
なぜ僕はただの布に惚れるのだろう。ただの骨と板の組み合わせに限りない奥深さを見出すのだろう。しかしそれにしたって、その可能性のどれだけを知っているというのか。
ヒトは道具を使って道具をつくる動物とされている。突き詰めたところ、材料と道具のあいだに明らかな線など引きようもなく、ただヒトは使うことによろこびを見出すのではないかと僕は思う。
もっとも美しい道具は材料と見分けがつかない。この美意識だけは、ほかのどんな動物にも到達できない域だろう。