はいはい意味なんてないよないない

映像にならないものは「想像」できないもの? わたしはどうやって「想像」していることを確かめるの? それは「想像」ではないの?
しあわせはどこに落ちているのかしら。
しあわせがどこにも落ちていないことは知っている。わたしの人生が不幸だからではない。しあわせは「落ちる」ものではないからだ。
それでもわたしは呟いてみせます。しあわせはどこに落ちているのかしら。
しあわせが「落ちる」ものだと仮定した瞬間に、しあわせはどこかに落ちているという可能性が発生する。もししあわせが落ちているのだとしたら、わたしはしあわせをみつけたり、しあわせを拾ったり、しあわせにつまずいたり、しあわせをふんづけたりする。それが「落ちている」ということだからだ。
わたしは落ちているしあわせをどうやって想像するの? その石ころ。それをしあわせの「権化」とみて、石ころをみる映像を想像できるわたしはしあわせをみるわたしを想像するの?
石ころころころしあわせころころ。
馬鹿な。石ころはしあわせではない。「石ころはしあわせを象徴している」と仮定したときに、そう考えることはできる。
オチ? そんなものは貴様で考えろ。しあわせがオチたとかそんなんでいいだろ。