記憶と時間、または記録

年を取るにつれて一年が短くなるらしい。
一年を振り返る仕組みが変わっている、と捉えるなら、振り返らない限りは、一年という範囲に速度は成り立たない。だから、一年が短くなることは避けることができる。
しかし振り返りたいのだとしたらどうしよう。きょうは何もない一日だったな、と人生を書き換える機能が記憶にはある。もちろん、はじめに何かが書かれるのも記憶のおかげだけれど。読み取ろうとするとデータが変化する壊れたメモリみたいなもんだ。
振り返ることに価値とか情緒を感じるのに、でもそのむなしさに抗いたいのなら、書くという行為をもってするほかない。記憶に書き込むという比喩ではないし、しかし結局そうともいえるかもしれない。それは記憶の捏造かもしれない。しかし正しい記憶などない。
いやー、きょうは何もない一日だったなあ。だなんて、それもまた書き込んだ記憶だろお。
思い出せないことを恥じる意味はない。思い出しつづけて、いまをどこに放り出すつもりだ。思い出すことは過去に立ち戻ることではない。思い出すことは新しい行為だ。つじつまなんて、はじめからないのだ。
何もなかったと思ってしまうのは、はじまりだ。そこが偽ることのできない現在だ。偽るな、と言いたいわけではない。偽り放題、という意味だ。