じつは会える

いわゆる別れのシーンがある。
「手紙書くからね」
とか
「じゃあもう行くね」
とかゆって、しんみりしてみる。
そうか、手紙というものがあったか、と思った。インターネットがなくても、そういうふうに遠くの人間をつなげるツールはあった。完全な音信不通に陥るわけではない。
とはいえ、いろいろな意味で現在のほうが「完全な別れ」には至りがたい。飛行機や鉄道だって普及している。会うための情報交換だって容易にできる。たしかに相手に依存する部分もあるが、会おうと思えば会えるのが、いまの時代ではないか。
いつかは会わなくなるだろう。そういう寂しさを覚えることはある。しかしそれは、本気で会おうとする勇気のない自分に対する落胆だったりする。「そこまでして……」とためらいを覚えることが、僕のそのひとに対する想いの偽りを示している。本当に相手のことを考えて? それは、どういう意味だろう。
いまのあなたに、本気で会っています。未来のあなたに、本気で会いたいです。
もしかすると、会いにくくなったひとに会うことよりも、いま簡単に会えるひとに会おうとすることのほうが恥ずかしい。それは、接したい、というレベルの想いをおのずと示すから。
つまり、何も変わらない。「会える」ことから目を逸らし、ただ「会いたい」と願うことにはなんの意味もない。想いを実らせる決心は「会う」ことにほかならない。



何を言っているんだろう - 反言子