パフォーマンスとメディア

何かパフォーマンスがあるとして、その魅力ができる限り発揮されるのはどういう状況だろう。
それはパフォーマ本人にしかわからないかもしれない。それがパフォーマ間の連携によって表現されるものなら、そこに特定のパフォーマの視点が立ち上がり、共有部分と複数の独自部分の総体に見出せる。しかしそこまで観察点を高めるなら、魅力とはひとが感じるものではなく、場に成立するもの、とみることができる。
その限りで、魅力とは主観と時間に強く縛られている。オーディエンスはパフォーマを共感・追体験し、そのためには電子を介さない程度には厳密な同期性が前提となる。感情の絶対値と時間を共有していれば、オーディエンスの期待や予想場に対する作用や連携として仮想される。噛み砕いていえば、ノリが大切だということ。
しかし一方で、いまはパフォーマンスをメディア化することにも大きく力が注がれている。あるいは、メディア化を目的にしたパフォーマンスも多い。そのとき、オーディエンスはその存在すら見出せないこともあれば、オーディエンスがパフォーマによって演じられることもある。
パフォーマンスをメディア化する意義とはなんだろう。その過程に意味があるのか、それとも結果に意味があるのか。
焚かれるフラッシュ、レールを滑るカメラ。こういうもので萎えたことはある。かといって、そのパフォーマンスが産業という土台に支えられている以上、否定することの無駄はわかる。
そう考えると、記録されることのない少人数の日常会話なんかが、逆に特殊な状況に思えてくる。