メディアとメディア

哲学は生の声に触れないとだめだ。しかしそれは不可能だから、せめて原著に触れなければだめだ。そういう意見を高校国語で読んだ覚えがある。哲学の本質はパフォーマンスであり、メディア化によってそれが失われる、または変化する。しかし、ひとの死を超えて残骸を残し続けることは驚異だ。
一方で「語り継がれる」ことでも残せるものはある。物語を残そうとしたとき、語り手はパフォーマとしてはたらきながら、そのひと自身がメディアであり、また聞き手も潜在的にメディアとなる。語り継ぐためには人間の認知能力に最適化される必要がある。そこで音韻やストーリといった要素が強調される。
哲学を言語化すること、物語を語り継ぐことで、明らかに本質は変化する。その過程で何か新しいものが生まれるかもしれない。メディアがパフォーマンスの真の意味・魅力を引き出したということだろうか。欠損し、変化し、装飾される過程を振り返り、原点に結びつけることに意味はあるのだろうか。
ある作品を協調的につくりあげる過程においても、アイデアは異なるメディアを流れていく。ストーリが台本に、絵コンテが映像に。その過程はもしかするとパフォーマンスとよべるかもしれない。しかしそれが目にみえることはない。メディアはその姿を結果のみによって示す。