考えるとは考えられないことを考えないことです

理解する(読む)ときと、考える(書く)ときの集中ってぜんぜん別ものだよね。本を読むときは音楽がけっこう邪魔になる(たまに雰囲気でるけど)。でも書くときにはあまり妨げにならない(雰囲気に成りやすい)。この場合の考えるっていうのは、資料とか何も参考にしないときだけど、やっぱりワーキングメモリを酷使しないという点が大きいだろうろうね。いや、そういうものがあったとして、の説明だけど。
読みながら書くというのは難しいと思う。目の前の情報に忠実であればあるほど、理解と思考のちょっとしたズレが大きなでっぱりとなって言葉に伝わってこない。集中ってそう単純なもんじゃない。でも、書くことは単純に読むことと切り離せるものじゃない(社会的な意味で)。でも、読むときには、ただ読みたいと思うのです。きもちよく理解するための準備として、考えつくすのがよいのかもしれない。
「調べろ」「要約しろ」「批判しろ」っていう命令は、考えよう考えようとすればするほど難しくなる。学校とか会社でいわれる「考えろ」っていう言葉は、だいたい言葉の綾が含まれると思う。もっとも、ひとからいわれて「考える」ことなんてあるのかね、と思う。
だから、山田ズーニーさんみたいな「考える」仕方のレクチャには価値があるんだろうね。そんなこと教えてくれる先生なんていなかったし、もし常識だとすれば、ずいぶんと偏った常識もあるものだ(笑)



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