大学生であることの社会的意味(のなさ)

いま僕は大学生ですが、不思議にも、そのことを責められない。肉体的に成熟し最低限の社交能力を身につけ、同じ年齢では自立しているもの、また、同じ大学生として学費や生活費を自分で稼いでいるものがいる。他方、僕は親に膨大な教育費や生活費を費やしていただき、奨学金という名の低金利な借金が、無惨ともいえる成績である僕にも許されている。
これは大学生であるということに社会的な信頼が込められているからだと思う。僕は大学で勉強し、人間的に成長し、お金を稼ぐ力を身につけ、結果として親孝行・借金返済・社会貢献を果たすはずだ、という期待を受けている。それに要するコストとリスクから考えて、社会は低学歴よりも高学歴の人間のほうが大きな社会貢献をしてしかるべきだと判断している。つまり、僕はいま信頼によって裕福な生活を支援・保障され、それは責任の裏返しでもある。
しかしそれはつじつまを合わせたにすぎない。僕の家族はそれほど貧困でもなく、また分相応の生活をしているため、僕もまた自由で豊かな生活を守られているというのが現実だ。
大学生によるリターンを目的に社会がコストとリスクを負うのだとしたら、大学では社会貢献できる人材を育てなければならない。しかし、大学生として独断でいわせてもらうと、大学はそんなところではない。ただの場である。
両親は僕に教育費をかけているのではない。僕の両親は、大学に学費を納めている。その結果、大学は僕に場を提供する。信頼は僕と両親のあいだに成立するもの。社会(その他大勢)は利益と商品をやりくりするだけだ。僕は大学生になって親に育ててもらい、その見返りとして親孝行するという信頼を負う。そこに「僕が大学生である」という意味は一切関わらない。
たぶん、僕が大学生であるということに社会的な意味はない(文章のでたらめさからわかるとおり、これははじめに書きたかったことと正反対です)。僕は形式的な契約をもって親と信頼関係を結び、また正当な対価をもって場を使用できる。その場から(いかに)意味を引き出すという、新しい関係がここに生じる。もしかすると、結果として、それも親孝行の中身に組み込まれるかもしれない。でも、きっとそうだ。



大学 - 反言子