集中と注意

集中と注意は似ている。どちらも「気を引き締める」ことには違いない。
ネサフはなぜ集中できるように見えるのか。飽きるひまがないからだ。集中できなくなった瞬間、またはそれ以前にページを閉じる。映画は、べつのことを考えるか、映像や音声のある一点に集中して紛らわせるしかない。読書ならそれがもうすこし緩い。集中は、飽きることと飽きないことの境界を渡り歩くようなものだと思う。集中がはじまった途端、飽きるという可能性が姿をみせる。
飽きたら切り替える。しかし切り替えは明確ではない。一回のクリックでワン切り替えとはいえない。ページをめくったから切り替わったということもあるし、一冊の本からべつの本へ切り替えることもあれば、10冊の本を集中して読みきることもありうる。しかしそれを集中と断言する道理もなく、結局はあいまいな集中とあいまいな飽きがゆらゆらしながら仕事に取り組む。
集中は地と図の明確なコントラストによって表現できる。しかし注意はもうすこしあいまいで、地に現われる図をすばやくキャッチする感じだろうか。違和感にアンテナを張ること、ともいえる。注意するために、自明な図を地に溶け込ませる。安全運転をこころがけるときに、いかにハンドルを操作するか、という意識は、むしろ注意の妨げになる。
集中の持続は、それが圧縮を続けているあいだ感じ取れる。展開されていく意味がつねに既存の意味に吸収されつづけ、大きくなりながら同時に小さくなりそして重くなっていくあいだ、限りなく飽きそうなところで飽きないという緊張が保たれる。
言いたいこと:難しい本を読むのは疲れる