鷲田清一『京都の平熱』

副題「哲学者の都市案内」。ガイドブックでも思い出話でもないし、なんかよくわからんけど、京都のある側面は知ることができると思う。美味しそうな話も多い。

京都の平熱  哲学者の都市案内

京都の平熱 哲学者の都市案内

京都人はじつは歴史意識や時間意識が欠如しているという話がおもしろかった。よそ者をよせつけないような文化にも背景があるとわかった。それが独特のコミュニティや距離感につながるのだなあ。

ノート

(p.22-27)「ものの味わいの判る人は人情も判るのではないかと思いやす」と言った料理人がかつていた。じぶんのために働いてくれるひとへの想いがないと、味は判らないというわけだ。(引用)

(p.28)食文化。調理することで「おいしい」を更新していく。大人の味、ついには病んだものと毒に手を出す。そして生に戻る、「なま」を「き」に言い換える。究極のおいしさというものはないのだなあと思った。ただ変化しつづける、というのは歴史のあり方に近い。

(p.41)歴史意識と時間意識の欠如。佇まいの変化のなさ、時代の顔がなくいつも「古都」。折り重なる複数の「いま」の厚み、それって純粋歴史ってやつ? 「垂直のエクスタシス」

(p.53)奇人は「合理」とは無縁の行動をとること。一本筋が通っている。だから、決めなければいけない、ほかにない、と思う。

(p80-82)壷銭食堂。行きたいwww トイレに何かあるらしい。(壹錢洋食のホームページつれづれなるままに - 壷銭洋食

(p.90)「うどんの佇まい」www ここまでうどんを抽象化するとは。

(p.94)若狭。

(p.111)文化にはお金がいるという話。

(p.120)期待とサポート。距離があって期待できる。サポートする。

(p.230)修学旅行のタクシーかあ。沖縄でいろいろ案内してもらったなあ。なるほど、地元のおみやげを渡すとは粋だな。

(p.251)京都駅前 レストラン七番館竹富イノダコーヒ

(p.253)出来事は、それが痛いものであればあるほど、見に刻まれた記憶として、内でいやというほどこね回される。こね回されているうちに、それがまるでじぶんのすべてを規定してきた核のように感じられてくる。けれどもそれは、記憶が、よくできた「物語」として編みなおされるプロセスでもある。これにはちょっと用心しておいたほうがいい。記憶は、油断しているとすぐに、よくできた「説明」にすり替わるからだ。「説明」にすり替わった記憶はもはや記憶ではない。そこにはわたしそのものよりも、ありそこねたわたしのほうが映しだされている。だから、よくできた記憶、辻褄のあった記憶のその脇に、まるで身を隠し眼だけをぬっと出してそれをのぞいているわたしがいる、と言ったほうがまだ近い。(引用)