いくつかのうそ

アニメを観ていると日々の生活が潤う感じがする。振り返るとそうだった。リアルタイムに、つまり毎週楽しみにして、ではないが、やはりよい作品に触れると脳みそがよろこぶ。ぐっときたり、ほっとする。モニタの向こうは絶対なフィクションだが、断じてファンタジではない。表現されたものは、すべて可能性に過ぎない。それが事実でないだけで、この生き様とさして異なるものでない。繰り広げられるのは人生だし、己が日々とまた変わらない。たび重なる折り重なる日常。
ベッドに身を沈めて記号とシンボルがうごめき出し、記録したいと欲が出る。寝るべきである、しかし絶対に忘れる。大事なことは忘れないなんて思い込みだ。忘れたことは思い出せないからそう思う。でもきっと、同じほほえみを繰り返して、そのよろこびを永遠に繰り返せるのだろう。つまり、思い出したい。同じことを同じように考えたい。思い込みで結構ですが、このほほえみを何度でも忘れ、ずっと忘れないに決まっているのだ。
言葉要らずと言葉足らずはうらおもてだ。もっと現実には、わたしにとっては言葉要らずでも、あなたにとっては言葉足らずかもしれない。とてもシンプルで確信に埋め尽くされた言葉にどれだけの言葉を和えても、わたしの納得する味にはならない。もしこの言葉に説明を求められるのだとしたら、それがわたしとあなたの限界であって、終演だ。
抽象化することで不当にひとのこころを動かすことがあるかもしれない。それは本来の「目的」を果たすかもしれない。しかし、それはもとのかたちをとどめているだろうか? 当然、抽象化したものが、伝わったのだ。60億人に理解されない言葉がふつうだ。なぜ、60億人に理解させないのか! しかし、たった一人以上に理解させてしまうのか! 答えはわたしのなかで腐っていく。