溝口理一郎『オントロジー工学』
第1部はオントロジーの概要と、オントロジー開発の言語やツールの紹介。第2部は哲学的・基礎的な考察と応用。第2部がそうとうキマっており、読んでられるかってことで笑うなどした。
- 作者: 溝口理一郎,人工知能学会
- 出版社/メーカー: オーム社
- 発売日: 2005/01/01
- メディア: 単行本
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概念の関係、クラスとインスタンス、上位オントロジー
is-a/part-of などの関係、クラスとインスタンスなどについて書かれている。いずれもオブジェクト指向でいうところの用語と似ているけれど、それよりもかなり厳密に区別されている。哲学を工学するのがオントロジー工学であるなどと気が狂ったことをいうのもわかる。
すべてのオントロジーの基礎になるのが上位オントロジー。要するに世界観だと思う。世界のあらゆるモノ・コトを体系化したもの。そんなものを構築しようというのだから、あたまおかしい。188ページに上位オントロジーの例が記載されているのだが、冗談のようでみていると笑えてくる。何が可笑しいのかといわれても、わかりませんが。
コンピュータが意味を理解するという言い回しについて
さいきんはデータという概念に興味をもっているけれど、それは意味というものに興味をもっていたことの裏返しなのかもしれない。情報とは何か、と考えるとき、それは人間にとっての情報であって、コンピュータには扱えないものと考えている。あるいは、情報とはパターンに還元できるので信号化可能、すなわちコンピュータで処理可能だが、解釈はできない。つまり、コンピュータで意味は扱えない。また、コンピュータが解釈をおこなえるべきだ、おこなえるとわくわくする、ということも思わない。
しかし流行りのメタデータやオントロジーの技術は、コンピュータで意味を扱うということを目指している。これは僕にとって非常に奇妙な言い回しで、まったくわけがわからない。理解できる範囲で考えるなら、データの処理という領域においてのみ、人間のおこないうる柔軟性をもって、かつコンピュータの能力を引き出して仕事をすることが、コンピュータが意味を理解する、処理するということのコンセプトだと思う。つまり、データという世界において人間と同等以上かつスピードに関しては圧倒的な仕事をこなすことを、意味に関する技術は目指している。
意味がデータを生むのか、データが意味を生むのか。ひととしては意味ありきだと直感できる。データでないものをひとは共有できるのだろうか。それは道具や財になるのだろうか。「意伝」するのだろうか。