文書

デジタルなものがどれだけ豊かになってもむなしさのようなものが残る感覚などを夢想することができる。データになるというのは味気ないものだが、かたちがないものがそうかというと違う。データに実体がないのなら、そのむなしさの正体はそのことなのか、あるいはパターンとして確立していることか。観念というものがふくれあがると豊かさのようものが残る感覚などを夢想することができないか。かたちのないこと、パターンであること、それらはべつだ。
魔力というか、威厳というか、メディアが、あるいはコンテンツがそれをもつときの実態とは何か。文書で未来が表されていると、ぎょっと思う。未来が写真で表されていると、ぎょっとするだろうか。「明日の新聞」に、ぎょっとするだろうか。あるいは、ぞっとするだろうか。未来が映像で表されていると、ぞっとするだろうか。1000年の未来が収められた映像にぎょっとするだろうか。1000年の未来が収められた文書にぞっとするか。
ぞっとする文書の実体とは何か。それが未来を表していることを証明することはできない。刻一刻とその正しさの片鱗があばかれていくとしても、ただ過去と照らし合わせることしかできないのなら、それを歴史と区別するすべはもちえない。
なぜそれは言葉なのか。それがわかるということは、その背景がいかに現実からかけ離れていないかを示す。しかしどうしてぞっとできようか。遠くないのに、なぜか遠くであると、計ることはおろか、彼方としての存在感をつかみとる道理とは。