サイエンスには目的がないのだろうか

サイエンスには目的がないのだろうか、とふと思った。手段から出発するからこそ、あらゆる領域に適用でき、ある部分において最低限の妥当性が守られた知識を得ることができる。
サイエンスの手段がどれだけ妥当であるかをどうやって評価するのか。現実的には、その手段を用いてどれだけ現象や問題を説明できるかによって計られるのか。理論とモデルの違いは微妙な気がするが、現象を正しく説明し、したがって精確な予測を目指すものが理論で、一方、わかりやすさをできるだけ保ちながら、正しい説明に近づけようとするのがモデルだと思う。どちらにせよ、説明に失敗するなら価値がない。
サイエンスは法則から演繹することで説明を試みる。その法則の正しさも、その法則の演繹からしか現実的に評価できない。法則が原理的に正しいことを、サイエンスは証明できないのか。
法則は実験によって実証される気もする。しかし、実験の結果を説明できないとき、法則を退けることはできても、説明できたからといって「その法則」が正しいことは確かめられない。実験もまた、説明を試みるためのきっかけに過ぎないのかもしれない。とすると、実験によって実証できるのは、その法則が正しいことでなく、あくまでその法則の仮定において説明につじつまが合うというレベルに過ぎない。
ところでサイエンスは「ない」ことを証明することができない。
サイエンスは、共有される言語の原型であるように思える。文法のない言語がないように、理論やモデルは文法そのものであり、ある領域や問題に対して個別の文法が適用されて手段を共有する。