知識を創出するための科学/組織の役割を自己実現に引きつける

おひさ。
北陸先端大の知識科学研究科による編著『ナレッジサイエンス』をちょっと読む。ちなみに北陸先端大の説明会*1に参加したら無料で郵送していただいた。うれしい。あ、献本だ(笑)
出典は本書に基づいて記載し、適宜Web版へのリンクを張りました。リンクしていないのも対応する項目があると思われます。

ナレッジサイエンス―知を再編する81のキーワード

ナレッジサイエンス―知を再編する81のキーワード

知識を創出するための科学

知識の科学とは、知識を創出するための科学である。そういうメッセージを読み取った。全体性がいかに形成されるかという問題に取り組むうえでデザインと科学が結びついた(36 知識デザイン)。システムを作って動かすことで対象を理解しようという方法が登場した(46 構成的手法→構成論的手法)。このような考え方に基づけば、知識を創ろうとする科学は、知識の解明においても有意義であると思う。
なんで知識の創出を重視するかっていうと、これからのビジネスで勝つにはどうすればいいんだろうっていう困惑があるからだと思う。科学的な見方だけでなく経験や直観なども必要なイノベーションをいかに起こすか(08 イノベーションマネジメント)。とくにサービスという新しい領域をどうリードしていくか(09 創造性マネジメント)。
イノベーションについて、国家・不況・データベースという文章がとてもおもしろい。データベース分野においてどのようにイノベーションが起きたかを概観できる。そう遠くない日、データベースの世界に一体どんなイノベーションを起こせるのだろうか、とわくわくした。イノベーションが一筋縄ではいかない問題だということも感じ取れる。このような問題を科学的に考えることはきっと有意義だ。
イノベーションとは何か。新しい欲求の満足をもたらす製品とサービスの創造であり、発明や技術ではなく経済に関わる概念である、というドラッカーの意見を思い出す(『チェンジ・リーダーの条件』p.31、asin:4478300615)。リレーショナルデータベースは先進的な技術開発であると同時に、IBMにハイエンド市場からローエンド市場への事業の転換を要求した。そしてIBMは失敗し、そのニーズは別のベンチャー企業が勝ち取った。ここからもイノベーションが単なる技術開発では捉えられないことがうかがえる。

組織の役割を自己実現に引きつける

組織について、自由奔放に考えてみる。
組織は情報処理のコストをうまく分担するためのものと考えられたきた。しかし、それではイノベーションを説明できない。そこで、組織を個人が新しい知識を創造して成長(自己超越)していく場と捉え直す(01 知識創造企業)。これが暗黙知形式知をぐるぐる回していくようなナレッジマネジメントの話につながる(02 SECIモデル)。
この考え方はイノベーションやデザインにおいて個人の創造性、内的な動機づけが重要であるという分析にもマッチする。それ以上に、組織の役割を自己実現に引きつけて理解できることにおもしろさを感じた。つまり、
組織のために僕たちがはたらくんじゃなくて、僕が成長するために組織があるんだ、と考えれば、僕はハッピーだし、組織にとってもべつにいいんじゃない?
組織は形式知と人材のデータベース。僕にやりたいことや知りたいことができたら、関係する形式知と人材をリクエストして暗黙知として身につける。そして新しいものをつくって成果としてまとめる。僕もデータベースも成長し、みんなもデータベースを成長させるから、僕はみんなの力を借りてもっと成長する。そんとき、組織は僕のツールにすぎない。
もちろん、個人の成長を目的にしては事業が成り立たない。ドラッカーがマネジメントの役割として事業の再定義を主張するのは、マネジメントがやらなければどうしようもないからだと思う。マネジメントにおいて自己管理を促すことを主張し、『プロフェッショナルの条件』(asin:4478300593)においてまさに自己管理の方法を説く。それ自体はライフハック的でわくわくしてよいが、もしかすると「マネジメントが個人の自己管理を促す」という図式を失うと致命的なのではないか。
僕のために組織が存在すると考える。そんな社員、技術者がいても、企業がなりたつかもしれない。しかし重役までそんなことを考えているとき、組織の目的をだれが決めるのか。目的をもたない組織は生き残ることができるのか。
組織を個人の成長という自己超越モデルだけで捉えることはできない。社会の問題に触れビジョンを定義するマネジメントの役割を解明しなければならない。
とはいえ、組織を自己超越の場として捉えることは、僕自身の成長において有益だし、何よりそんな考え方は僕のきもちにおいてハッピーだ。そういう示唆を与えてくれた点で自己超越という考え方にはとても興味をもった。

知識の科学であるために

以上のような問題を取り上げると、知識の科学とはつまり経営学なのではないかという疑問が浮かぶ。そういう側面は大事だろうが、知識とか科学っていう看板をもつ学問としてはちょっと不満がある。
知識の科学としての条件は、知識を創出する方法を一般化し、問題に応じて方法を使い分ける知識を創出すること。つまり知識創出の方法論を生み出し、実践することにあると思う。
その方法と方法論がビジネスだけに使われるなんてありえない。本書では生命科学、環境問題、グローバル経済などに対する取り組みが紹介されている。専門的な理解は及ばないが、知識科学がこれからの学問において重要な役割をもつ期待はある。(Capter5 知のオデッセイ

もうひとつ、知識の科学は、知識を創出する以前に、知識をのこすことに尽くさなければならないと思う。情緒的な話だけど、たとえば再利用されない知識に価値がないと切り捨てるのは、知識の科学として忍びなく感じる。知識科学が高度化することで、ある観点から一部の知識が軽視されてしまうんじゃないかっていうのは、僕の杞憂だろうか。