日記はいまを過去にリメイクする苦しみから逃れられるのか

本を読むとき、どういうこころがまえをもつべきか。新しいことを学ぶため。いままでを根本から塗り替えるほどの気概なんて、はたして必要であるわけがない。娯楽、情報の消費、逃避の手段として楽しめればよい。これまで積み上げてきたものは正しかったのか。その積み上げかたは正しかったのか。積み方を間違ってはいなかったか。ならば土台を崩さなければならないか。
たましいをすり減らして取り組むべきかどうかをどうやって判断すればよいのか。教えてもらっても納得がいかない。たましいをすり減らして何かに取り組むたにんがいる、その姿勢をみる。ひとの成果に、たましいをすり減らす価値を認めるかどうかは、信頼である。読書なんだったら、その本は、著者の人生がかけられている、ならばわたしの人生を掛けてみるかどうか。
自分に問いかけながら進める読書はだいたいの場面で退屈を感じる。物語が進まないからだ。ひたすら対話であり、なおかつそれは我々非コミュが忌み嫌うおしゃべりとよぶにふさわしい散漫なそれにすぎないからだ。たましいをすり減らした結果がおしゃべり、とてもおかしい。
新しいことを覚える、物語を消費する、たにんのたましいを省略する。そういうとき、つまらなくても楽しみやすい。要するに、ふだんウェブで遊んでいることを思い出す。それだけで、本であるというだけでたましいをすり減らす信頼を覚えるのは、じつに論理的といえない。
新しいことを覚えるのがめんどうなのだ。できるということ、かつやり方をわかって、かつやりたいことであれば、取り組むことができる。このどれかが欠ければ難しい。できるかどうかがわからない。できるのはわかっているのにやり方がわからない。できるかどうかもわからないしやりたくもない。できるけれどやる気がない。さて、できるということはわかっているし、やりたいことなのだけれど、やり方がわからない。めんどうだ。
どこかしらの場面でえいやとはじめてしまうこともあるのだろう。なぜかできることはごく遅く増えていくし、そのおかげでやりたいことを億劫でなく達成できる。そのきっかけが対象の知識や能力そのものの本質に依るかというと。
抽象的な文章が好きなのは、新しいことを覚えなくて済むからかもしれない。理論は、あたまのなかにある具体的な観念をひきずりだすヒントか、科学のための方法として、あたまのそとにある現象に当てはめるためのものだ。具体的なのに観念なのか。あたまのそとにある現象が過去としてリメイクされたものをそうよんでみた。思い出せるすべてと、考えうるすべてが、具体的な観念のたまものだ。新しい事柄なんてひとつもない。
問いかけは答えになるのか。問いの意味を考えれば、その意味に対応する答え、具体的な観念がひきよせられる。問いの意味を考えずに答えだけ、それだけを考えることなんてできるのか。だから、問いかけに対する答えが問いかけになるのは本質的だ。では、それを答えとして十分とみなせるほどか。日常的には、そんなわけがない。
新しいことを覚えるのがいやなら、いわゆる基礎的なことを学べばよいではないか。たとえば、いろんな情報技術を身につけるのがめんどうで、かつやりたいことの手段としてそれらが多く含まれるなら、コンピュータ・サイエンスを学べばよいではないか。なぜ、していないのか。答えはもう提出している。できるということ、やり方、やりたいことが揃えば可能だ。
サイエンスはブラックボックスを許さない。やりたいことを達成する場面とは異なる。科学が自然に迫る学問だとしたら、工学は職人に迫る学問だ。工学の使命は、ひとがあっと驚くような技からベールをはぎ取って、だれにも提供することだ。ベールをはぎ取る方法は科学と似ている。ホワイトボックスになってわかることは、できるということだけである。やり方を発明するのは工学ならではの仕事だ。やり方がある種の制約を守って美しくかたちづくられたら機械の姿をとってやり方そのものを我々に届けてくれる。
芸術が科学と相容れないというある種のパラダイムを支えるのは、そもそもにベールをはぎ取られたくないというだれかの思いだろう。芸術を生み出すひとのか、鑑賞するひとのかはわからない。芸術は理解しがたい。時代に文化にと移り変わる。それをして科学的方法と相容れないとも解釈できる。しかし芸術がひとりでもひとを感動させたのなら、工学をはじめざるをえないきっけとして十分だ。
こんな解釈をすると怒られるかもしれない。学生として恥ずべき考えであることに気づいていないせいかもしれない。ソフトウェア工学の意義は、コンピュータ・サイエンスのわからないソフトウェア技術者を生み出すための学問ではないかと思う。あるいはハッカー的才能のないソフトウェア技術者を生み出すための学問だ、これは正しい。対象を根本から理解しないといけない、ああそれは工学者の義務だ。理解したほうがよいものをつくり出せる。それは工学の本意だろうか。
仮説が思い浮かぶ。できることがわかっていて、やり方がわからず、やりたいことを、やり方をわかってできるところまでもっていくには、やり方を覚えるやり方があり、それが何かを知っていることが条件になるのではないか。もちろん条件なんていう言葉を用いるのは厳しい、きっかけというところ。いちいちそんなことを考えるはずがない。好ましい姿勢ともいえるはずがない。
新しいことを覚えると、具体的な観念が増える。理論の、自分に対する効果は、いままでどおりでなくなる。思い出すこと、考えること、覚えることの、いずれかが優れているというわけはない。たましいをすり減らして読書することが、物語をやっつける読書よりも優れている道理はない。