ふつう、自然、あたりまえ

向学心をもって積極的に生きる生き方と、そうでもない生き方の、どちらをもひとは選べる。どちらを選んだからすなわちしあわせというようなものでもないと思う。べつに情熱がないので前者の志がない。べつに気力がないわけではないので、何かを学びたい、何かをやりたいと思うことがある。それを実際にやるかどうかというのは、情熱がないわけだから、ほかの何かに頼る。いわゆる環境というものに、だし、けれど、言い換えるなら、ふつう、自然、あたりまえに。ある種の生き方に特別な価値があるというのはどうも素直にうなづけない。ふつうであることは、価値判断の結果ではなくて、価値基準なのだと解釈する。
あるところで、若いひとたちが勉学に励んでいるのを拝見すると尊敬もうしあげるが、そのところにおいては、彼らの姿勢はあたりまえのものだ。彼らがどう思っているかは知らないが、僕は、それはあたりまえのことだと思う。勉学をきらうことはあたりまえだし、勉学に励むことはあたりまえのことだと思う。あたりまえとか、ふつうとか、自然というのは、重ね合わせてぜんぜん違っていたとして、矛盾とはいわない。
ひとによっては、ふつうを乗り越えようとしたり、限界を感じてふつうを変えたり、つまりは環境を乗り換えたり、つくるかえたりを試みるだろう。それを情熱とよぶ。情熱はないんだけど、すぐ近くにべつなふつうがあるのなら、ちょっとした気のゆるみで☆乗り換えてしまうならそれもよい。
基準と基準を比較して、どちらがどちらよりすごい、というのは奇妙に感じるのですね。基準を移し替えるのは、難しいかもしれない。わからないけれど、いろんなふつうがあるのはよいことだ。違いには、すごい、と思ってしまうものだ。しかし、すごくない、それが基準なのだと考えると、余計によいことに思える。
ああ、彼らが、自然に振る舞っていれば、どんなに既存の基準とかけ離れた基準であっても、僕はふつうであると感じるし、彼らに情熱は必要ないと推測する。べつにもっていてもかまわない。
「勉学に励むのはあたりまえ」。こんなに聞き心地のよい言葉はないし、「勉学をきらうのはあたりまえ」。こんなに聞き心地のよい言葉はないね。
ただ、どの自然なありかたに美しさを感じるか、ということかもしれない。どれだけ自然であるか、ということがその美しさかもしれない。ある文脈であたりまえとされることが、またある文脈で困難であるのはあたりまえのことだ。このあたりまえがいい、あのあたりまえが好き。そういう穏やかなきもちを情熱とよぶと、ほっとする。