つくるひととみるひと

つくるひと>みるひと、という図式は、わかりそうな気もするのだけれど、わからないところもある。その理由は、僕がみるひとだからである、となると、水掛け論になる。で、作品の価値をみるひとから切り離して評価できるか、という問いは、おいておいて、べつの問いにする。作品の価値が高いとしたとき、ただみるひとを、おろかだ、不毛だ、幼稚だ、と非難するのはつくるひとに無礼だと思う。もちろん創作活動を搾取のゲームとする場合はそうではない。そうでない場合もある。となると、価値の決め方は一辺倒ではない。ある場合において、つくるひと>みるひとだ。
独自性の高い作品は、そうでない作品よりも優れているのか。二次創作よりも創作、実況プレイ動画よりもゲーム、ミリしらよりもアニメ、であるのか。独自性が評価の一軸になりうるから、問いに足らない。
(みるひとが、おもしろいと思うことを、評価の一軸とするのであれば、みるひとは劣っていると論じるのは乱暴だ。それとは関係なしに、みるひとはつくるひとに敬意を払うかもしれない。)
(つくるひともみるひとになるとかそういうのは関係ない。つくるひとではないみるひとはいる。そのひとの話。)
(ところで、現代人としての世界観、価値観は、人間たちにつくられる仕組みを、妙であると感じるか、興味深いとするかで、二手に分かれる気がする。)
(自分に向けられた敬意を見下す人間は悲しい。しかし彼我に評価の軸の隔たりがあるなら仕方はない。)