あこがれ

好奇心にあらがわないさまには魅力がある。その結果は無礼や下品でありうる、誠実や爽やかでありうる。これらは択一される問題であるか。これは無礼ではないか、下品ではないか、そのような気遣いを意に介さないことに、悪意のなさ、裏表のなさ、俗にいうむっつり、でなさ、を見出せる。しかし、本当は!裏に悪意があるか、ないか、なんていうことは他人に確かめられないので、悪意がありそうにみえても、そうでなくても、そのさまが俗にいう天然であったとしても、それとは独立に、無礼とみなす判断はある。このような危機管理の問答を踏まえて無難を求める結論を得てもよい。でも、こんなまどろっこしさを覚えてしまったから一周してやはり、悪い可能性をどこかで知りながらも最初のきもちにあらがわないさまは爽やかだ。そのさまが、立てた問答を捨てた結果であれば、そのうえ勇敢だ。
このように好奇心にあらがわないさまに魅力を見出すならば、好奇心のなさにあらがわないさまをも認めないと、胸騒ぎを感じる。そうそう、こういう、論理的な一貫性とはたぶんいえない、美的な一貫性みたいなものはある。ほかに興味とか、問題意識とか、その、なさ、または(いわば)ありさを、反省できないことでも言い換えられる。ではそれが爽やかであるかというと、その逆ほどではないものだ。それでもどこかいっしょなのではないかと考えたくなってしまう。どうしてだろう、なんて考えたら、あこがれを易しく達成したいという浅はかさに思い至って、恥ずかしい。