こんなとき

日ごろ、わくわくすることは。スーパーで食べ物を見て回っているとわくわくする。いつものスーパーの品揃えなんてそう変わらないのに飽きもしないものだ。よく変わるところもある。問屋から在庫をまとめ買いしましたという安い(こともある)お菓子が積まれているコーナーは訪れるたびに期待を抱く。寿司は8時30分に半額になる。一部の総菜、巻き寿司は8時0分から半額になる、しかし8時30分にならないと半額にならない総菜もある。かといって8時30分には半額の寿司しか残っていないことがほぼで、揚げ物でも買いたいな、というときにはそれだと遅い。安いコロッケも無くなっている。半額シールが貼られていくさまをそわそわと窺う時間は気分に悪い。ほしいものがなかったときは気分が悪い。ひとの視線の上に手を伸ばすのは気分に悪い。こう書くと、ろくなことがないのに。
百円ショップや業務スーパーは非日常の感がましてなおわくわくする。日用品を売る店だ。それを買うというのに。土鍋、ミルクフォーマー。新しいおままごとの道具。皮のついた里芋は買ったことがない。手がかゆくなるということを百聞にしか知らない。フライドポテト、チキンナゲット。ハンバーガーショップに足が遠のく。業務スーパーに人混みをみることは珍しい。人間の少ない商業施設に佇むのは気分がよい。どうしてこんなにも人間たちは活動しているのかと疑わずに済む。だれもいないのは寂しい(?)。ふたり、さんにん、客がいたほうが落ち着く。ひとたちに合わせることの反対は、だれにも合わせないことではなく、わずかのひとたちに合わせることかもしれない。ふと望んだとき、そのときのだいたいで、こんなときを選べればすてきだろう、と思う。
買い物をしているとき、値段を気にする。安いとうれしい。本当に得をするか、という問いは難しい。満足の予測を値段に比べること。その値段が安いかどうかというのは感覚によるもの、得か損か、というより、その値段が美しいか醜いか、という領域にむしろ近い。美しい値段のものをかごに入れるとき、節約の意識は隠れる。いまの自分には限られた資源があるという制約を忘れる。制約を守るゲームは戦略のゲーム。戦術のゲームでは、資源は限られているからこそ制約は解かれる。値段の美しいものを買う気分のよさは、値段に糸目をかけずにほしいものを買う気分のよさに通じる。日々、豪遊している。