知的マッチョこわい

研究とか知識労働とかいうやつはいわゆるデスクワークであって体育会系的な価値観・方法論とは対照的である、体育会系はクソだ、敵だ、みたいに思いたいきもちがある。でもぜんぜんそんなことない意見があって、あほか、クソか、と思う。ただ世の中が自分にとって都合よく成り立つべきであり僕は何も努力せずに済むべきだ。そうなっていない世の中はおかしいし、他人はもっと僕のために努力すべきだ。そして僕はなんの苦労もなく知性を得るのだ。っていう。
しかし現実に、知性を中心とした仕事においても身体的な訓練に通じる方法が有効であると実感されていると思う。身体的な訓練は、広い意味でわざを身につける方法、そして価値観のあらわれであり、知的仕事においてもわざが重要であることがその有効さの理由に思う。

知的仕事においてもわざの訓練が使える、というか、そういう方法、およびそれを支える価値観が重要だとして、どうすればそんなクソを受け入れられるというのか。わざの訓練には苦労がある。苦労はたまに快感に副作用する。たとえば、僕はリア充という状態をこう解釈している。「人間関係や社会的地位によって与えられた課題や出来事をこなすことに私的な時間を奪われ、しかし活き活きとした一面もあるその生活に満足感を覚える、主体性に関する思考停止の現れ」。社会的関係によって忙しくなることで、価値観を外部委託して、意識的問題を保留できる。その結果、無・意識的な仕事に楽しく集中できる。訓練というものを、わざを無・意識化する儀式と捉える。
しかしその有効性なんて知ったことではなくてやりたいことをやるのもめんどうくさい。それでもなお「僕はなんの苦労もなく知性を得るのだ」って思いたい。
日和って、あいだを探すと、この事態そのものを訓練するという道がみえる。なんもないことが自分の生活において時間量的に重要だとしたら、何もない事態に言及することは重要な気がする。僕はだらだらをやり込んでいる。ひとよりもだらだらのわざに長けている。
僕は不完全なので、無・意識的な儀式の価値観を完全に否定することができない。かといって、その価値観をうまーい具合に自分にインストールできるような器用さとまっとうさもない。クソか、あほか、って思わない範囲で、無・意識的につまみとるのがせいぜいなところで、しかもこれが考え方として一貫してないなんてことはふだん気づかない(こういう、論理的な一貫性とはたぶんいえない、美的な一貫性みたいなものはある)。