めしが食いたい。めしを食わせろ。

めしが食いたい。とても食いたい。これからめしを食うのは簡単だ。自宅のあり合わせでもよいし買い物をして帰ってからそれを食うのでもよい。ローソンにAmazonの荷物があるからそれを受けとって、ハンバーグとかの総菜を買って帰ってもよい。ローソンにはビッグカツはないがうまい棒は9円だ。いつものスーパーに寄ってもよい。刺身を食べたい。しかしどんなにプランが思い浮かんだとしても僕はいますぐめしを食えない。目の前に菓子はあるが、菓子を食いたいのではない。僕はめしを食いたい。いますぐめしを食いたいという形容は無意味だ。めしを食いたいという欲求は、形容するまでもなくそういう意味であるからだ。プランは欲求を満たさない。どんなに豊富にプランがあっても欲求は満ちない。僕はめしを食うことができない。めしを食うプランを考えることしかできない。考えているとも思えない。なんかやらなきゃって焦っているときは、焦りばっかりが大きくなって、考え事をしている気にはならない。僕はめしを食えないし、めしを食うために思考することもできない。僕はこの日記を書いているだけで、思考していないし、欲求は満たされない。考えているのではないし、したがって考えたことを書いているのではない。ただの時間的先行が書き始めになれるのなら、書き始めは意識に先行する。めしを食う、と同じ次元で、日記を書く、をしている。日記を書くプランを考えているのではない。日記を書くことを考えているのではない。日記をいま書いている、と形容するのは無意味だ。日記を書くとはそういうことだからだ。めし。めしのことをいま思い出した、途端!めしを食わせろ。めしのことを思い出した。思い出したのではない。ふたたびめしを食いたくなった。僕はめしを食えない。