機械で読む→精神で読む

いまどきは機械で本を読むことがある。本というパッケージに限らず、機械で読む、ということがある。機械で読むことは、操作することで読む。操作には、ボタンを押すとか、画面に触れるというのがある(ここではフリックよりもタップを想像している)。
ボタンを押して読むことが僕の手にはなじむ。そこにつねに(押さずに)触れていられる、したがって持つということを自然に実現しながら操作できることがよい。また、操作を誤ったという過失と、機械がうまく反応しなかったという不具合を、区別しやすいことがよい。
けれど画面に触れる操作も、持つことから解放される環境が整ってればいれば、ぎりぎりまでカロリーを節約して読むことができて優雅だ。その優雅さは、言葉への没頭に手招いてくれる。
ボタンを押す読みは、堅実な情報処理の読み、画面に触れる読みは、からだから抜け出す精神の読み、という感覚を抱く。
とはいえ、本から得られる感覚は読むときのからだの使い方よりも内容に依るのではないか、という疑問もまっとうだ。そこで、その体験は消費期限のついた新鮮な体験なのか、それとも新しい体験なのか、という論点が思いつく(新しさというのは、本質的な異なりが本質だと思う)。

まえがき(あとがき)

読書体験とか、ユーザ体験とか、情報の身体性、あるいはコンテンツの身体性、たとえば固有のスタイルをもつウェブサイトを訪問して読むことと、固有のスタイルを捨象して(RSSリーダで)ウェブサイトの内容を読むことの違いについて、あるいはなぜいまこの日記のスタイルいじっているかという思いについて、などを書こうとした。
これはおもしろい話であるはずなのに、ぜんぜん書き進まなくて参ってしまい、その負荷は、はじめから整理して書こうとしていることによって生じていると考え、前から順番に書くところからはじめようとした。
この前というのがじつはおもしろくて、前というのは間違いなく論理的な前(抽象度や因果関係の順序)とか理解容易順序(わかりやすい説明の流れ)的な前ではなく、かといって時間的前というとあまりにおおざっぱで、それを、思った時間的前と限定してみても、この書きは思い出すことと新しく思うことの混合だから単純化できず、いま思うことの時間的順番と一元化しても、思うことと書くことの平行感によって綻びそうで、では、前から順番に書く!とはいったいどういうことか、それは「書く順番に書く」という論理的無意味な答えにたどり着いた。
その結果、書こうとしていたことを、書くタイミングは見つからなかった。

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