ガードレールの内側で興味がないことを勉強する

ひとの優れた成果をみると楽しい。その成果が自分の興味に重なるとなおさら楽しい。まもなくきもちが沈んでいく。興味のあいまいさゆえに錯覚できた希望の光は、優れた成果という絞りに遮られる。おかげでいくらか先がみえるようになるのだけれど、向こうまで光は届かない。あれを勉強しなければならない、これも、それも。パノラマの地平線は消えて、暗がりの道が残る。
残った道が、思いもよらず足の届くところにずっとあった、あるいはすでに通ったことすらあった、ということに気づくと、いったい……。陽射しが眩しくて気づかなかったのかもしれない。けれどもっと強く足跡をつけておくこともできた。
できた? 興味がないことを勉強することがある。興味がないことの勉強にはたいてい洗練された教材を使う。体系的な教材で効率的に勉強することができる。たぶん効率というのは掛け算だと思うから、興味がないことを勉強するのが下手なひとは、優れた教育から何も学ばないことを達成できる。
0じゃなければよい。何かがあればよい。たとえばゲームとして遊べるひとがいる。共感できない。ならば僕は逃げ道を見つけられる。興味がないことの勉強には光がないから陰がない。興味がないところにはなんの意味も価値もない。なんという、ふしあわせのなさだ。
これは可能性の逃げ道だ。時間を越えている逃げ道。だから本当は逃げ道としてはない。あらかじめの逃げ道であって、だからこの逃げ道に逃げるという時点はない。逃げ道、になる、かもしれな、かった、ものを、あらかじめ、見つけたものだ。
時間を越えた自分が、時点としての自分を救うと想像するのは、高尚でウケる。