できる/わかる/考える

なぜ「考える」か。「わからない」けれど「できる」という事態に不安を覚えると、「考える」で解消したい。制度化された知的生産は限定された「わかる」とその応用としての「できる」を量産する。「わかる」から意味の連鎖を剥ぎとって出来事の連鎖を残す。この「わかる」は「できる」と相性がよい。あるやり方で出来事を連鎖させることによって、なぜかはわからないが、よくできる、という成果が出る。ここに「いや、それ、〈わからない〉だろう」と思うなら、やれることは「考える」しかない。
「わからない」けれど「できる」ことを受け入れていることはたくさんある。受け入れがたい領域もある。なわばりがある。なわばりで意味を張りめぐらすことが「考える」だ。