魅力労働

魅力が技能によって実現可能であるとして、魅力を資源や価値とする職業者は魅力の技能を高めて仕事に熟練することを試みうる。他方で魅力は職業の文脈でなくとも評価を受ける。全人格的とか人間的といった形容は文脈の境目を溶かす。このとき職業者的アプローチすなわち技能を高めて魅力を上げる試みは脱文脈的に推奨されるだろうか。個人感情としての抵抗に説得のすべはあるだろうか。「そのほうが結果として生きやすい」(A)とか「それによってしか成しえない価値を追求したいだろう」(B)とかいう実践の価値観に基づく説得を思いつく。そのような実践の価値観になぜ同意しうるか。それは循環的に、その実践の価値に同意できるとき、その実践の価値観に同意できるのではないか。納得の価値観から実践の価値観に転換するのは、納得感を越える実践価値へと向かわせる状況においてだろう。たとえば「なにがなんでも」というとき(B)。「なんでもいいから」も、もしかしたら(A)。
単純に気づいたこととして、周りには(自己中心的視座において)魅力がある(ようにみえる)ひともいれば、ない(〃)ひともいる。その違いはわずかな技能の違いに基づいていて、わずかな技能習得によって埋められる差ではないか、と考えた。なぜそんな同意しがたいことを考えたのか。ある思い込みに基づくだろう。他人のもっている納得の価値観は想像困難であるために、他人には納得の価値観が(認識的に)ないという前提だ。(存在的に)あると考え、想像困難性に感情移入という手法で対応するならば、技能をもつ職業者もなお価値観の形成を問題としている。その価値観形成問題はふつう秘められる。その「ふつう」状態には緊張の強さ、弱さがあるように思う。緊張の弱さは順調さを表す。強い緊張は適応を要求する。その緊張をやみくもに想像すると、すごいなって思う。