日記

演劇入門 (講談社現代新書)

演劇入門 (講談社現代新書)

めっちゃストレートに「表現したい」って書いてあって、それな、と思った。さいきんはおもしろいものをおもしろがっておもしろかったで満足するポジティブフィードバックがかかってて感想生成とか感想文生成とか、表現というか記述とくになくてせいぜいおもしろかったの何がかくらいでそれでどうしたという感じ。何がのピックアップに世界観のブラックボックステストとしての趣があるとか言ってみてもしょうがないしそういうレベルのものじゃない。こういう書くネタがないという文章とか、書きたい気がするけど書けない書けてないみたいなの書いても書かないほうがましみたいに思ってしまってためらってしまうのだけれど、こうやって上から順番に書いていくとそのへんの書くことがないという主旨の言葉のなかではやや平均値からずれている気がしてまったくくそではないのではないかと思う。
テーマがあると表現を構築する色気が出てきて一番上が途端に決まりにくくなる。テーマがないのに比べて一番上がよくなるわけでもない。書かないほうがましな一番上だから消してしまうとなる。上から順番に書いていくと一発目の削除がスキップされるので、消す量がふえてもったいなくなるのでちょっと生存率が上がる。色気で考えると書かないほうがましなので本来消すべきやつなのかもしれないが、色気みたいなそういうのに比べてもったいないモチベーションのほうが強い。ひとそれぞれの節約快楽への感受性の違いだと思う。(最適化欲求。横長の座席を真ん中から埋めるとか、席取りをしないとか、使われていない部屋の電気を消すとか。そういう問題への求心はマナーとか道徳の言葉でやるのが正攻法っぽいけど、そうしないときもちわるいみたいなきもちをもつひとってそんなすくないのかなとおもう。)
本を読んで、おもしろいコトが書いてあって、そのコトをおもしろいと思って、ではおもしろいのだから書こうか、とか思って、コトはいくつか関連的にあるのだけれど、それを構築してパラグラフ群とそれらの一番上を決めようとかまっとうに考えてて、くそめんどくさくて書けない書きたくもないとかなってて、そいで一個の共感からあんまり関係ないことを書いててあんまり関係ないのだけれど、一個の共感があるだけでもう関係がないなんてとても言えないじゃないかと思う。記述全体のモチベーションがそれにあるから。全体が関係あらずにはあれない。

アニメの話をするふり。2014年1月開始くらいアニメの視聴がすっぽり抜けていてさいきん埋め戻しつつある。「Wake Up Girls!」の第2話をみてすごいことになってしまった。応援のひたむきさに感動(動揺)してしまって。この種のエンターテイメントを先述の「おもしろかった」のレセプターで処理している自分にはあまりに眩しくて虚を突かれた。対象をコンテンツソースとみるなら、応援なんてものはできないなと思った。応援すごいって思った。なぜ応援できてしまうんだろうと思う。
たましいを抽象できる集団は人化されて応援の対象になるかもしれないが、機能的なコンテンツソースが維持されるメタコンテンツソースとしての組織とみたときは、やっぱり応援できないと思う。その単位で応援ができるひとはどういう精神なんだろうか。たとえばたましいが途切れておらず、その継ぎ手を軸にして応援するというスタイルの想像ができる。
コンテンツソースとしての便利を学習することと、応援することはかなりメンタリティの違いを感じる。みなさんどういうつもりで応援とか、それに近い言葉を使っているのか気になる。それを飾る言葉がついたとき、それはどういう意味なのか。コンテンツ消費の駆動燃料価値がおもしろいだとして、応援の駆動燃料価値はなんなのか。