日記

卒業発表のあいさつとして完全だなと思った。ファンとしての視座をもつからこその配慮に満ちた優しい演説だと思った。あるひとの、そのひとの生き方についての、そのひとの信念に、なんの文句をつけられるだろうか。対象が人間だということを覚えていると手を出したくない領域を僕は感じる。敬意で思考停止をラッピングする。
でもじわじわともやもやしてくる。完全な優しさへの敬意は、じつに分析的にたどり着いたものだった。ひとつは、ファンであることをきっかけに入ったメンバーとしての視座。ひとつは、対象のメンバーが卒業していくファンとしての視座、すなわち、卒業の理由に納得体験を求める心情。ふたつの視座から発見される問題をクリアする要件を満たした演説だと分析した。これをして完全とよんだ。
そうではないじわじわのもやもやが。これを言葉に言った途端、僕は対象が人間であることを忘れる気がする。そういう言葉はこころないものだと嫌っている言葉になる気がする。あの敬意は分析的に出てきたものであって、他方にはまだ足りない敬意がある。四分の一くらい、自分が人間であるという正当化なんかもできるのかもしれない。
娯楽のための表現者が消費者の印象を補足する意味に疑問があった(松村香織が、アイドルは舞台の上ではいつもキラキラしているが、舞台の裏ではそうでない姿もあるし苦しいことのほうが多い、とたびたび主張する意味に疑問があった)。非機能的だと思う。それを理解することによって消費価値が増える気がない。機能的に、対象が人間であることを忘れていれば、そう思うほかない。
この文脈においてやっと苦しいという言葉に力をみつける僕は浅ましい。気づくに、常々、僕のみるアイドルはコンテンツソースであり機能の集合であり人間でない。人間を思い出したときにはもう先行きは途絶えた。局所的に人間を思い出してそれを当たり前に思うのに、常々はその反対であった。文脈はなわばりがあった。
対象をコンテンツソースとみるなら、応援なんてものはできないなと思った。先行きが途絶えてやっと、僕は応援の準備を始められるのかな。