現象学やってるつもり
おたくほんとめんどくさいからステージの上だけですべてが完結してほしい。最終的な真実はやっぱり現場でのパフォーマンスに現れるものがすべてだと思ってる
— * (@honeythestar) 2015, 4月 16
それですよねって思って。
現場日記書いてるときは現象学やってるつもりでいる。
— きをふし (@kiwofusi) 2015, 4月 16
っていう連想をつぶやいたんだけど、なんだそれって感じなので、補足?してみる。
(背景:さいきんアイドルのライブに行って感想を書いています)
僕は現象学ってこういうものだと思っていますという話。
参考:現象学の刷新をめざして(以下はこの文章を僕の言葉で書き直したつもりのやつ)
意見が食い違って喧嘩することがある。お互い「これが真実だ」って言い合っても話が進まないし、かといって「真実などない」と言ってもやっぱり話は進まない。
「社会とは」とか考えるの、何かあたまのいいことをやっている気持ちよさある。でも、そんなあたまのなかの妄想よりも、身近な出来事で何を感じ取ったかのほうが大事だよね(謎)。
「俺の真実」と「お前の真実」の違い。「社会とは」っていう思考ゲームと、「何食った」(うまかった)とか「どこ行った」(疲れた)とかいうライフログ。でもこの思考ゲームとライフログを対立させて遊んでいる俺とはいったい。
「社会とは」っていう思考ゲームが超絶ハードモードであるにもかかわらず、みんな「社会なんてない」とは思わない(当たり前すぎて「社会はある」なんてわざわざ言わない)不思議。なんでみんなにとって当たり前のことと、そうじゃないことがあるのか。
みんなにとって当たり前で、だからだれもわざわざ言わない「いちからか? いちからせつめいしないとだめか?」ってところから考えるのが、現象学のやり方。
たとえ「俺の真実」でも「お前の真実」でも、みんなにとって当たり前のことといっしょで、そう思うようになった道のりを現象学のやり方でいちから考えることができる。二つの道のりには違いが出てくる。何が違っているのか、そのなかにわかり合える部分はないか、というのを考えるのが、現象学のその次のやり方。
なんでそんなふうに現象学のやり方で考えようと思うのか。自分が思っているをひとに伝えたいから。ひとが思っていることを理解したいから。ひとがわかり合って生きるっていう生き方をしたいから。
おわり。
以下、雑談。
「現象学」っていう言葉について。「現象学」って、ググって出てくる日本語を読んでも「???」って感じでまじでなんなのって感じで、実際よく知らないし、開き直って僕は「現象学」という言葉は「現象」という言葉とは関係のない、学問分野でもない、何かしらの考えるメソッド(やり方)であって、たとえば「高橋メソッド」の「高橋」の部分のように無意味な言葉が「現象学」だと思っている。
「楽しく考えるためのやり方」みたいなポイントをかすめ取って、なんか考えたり日記書いたりするのを楽しくできればいいなって思ってる。
現場日記を書くのが「現象学やってるつもり」ってなんだっていうと、感じたことを言葉に残したい、自分がいいと思ったことに自信をもちたい、よさをよさとして感じるまでのこころの揺らめきを写しとりたい、みたいな話。たとえば「やっぱ○○だな」っていう信念はいかに構成されるのか。
そんなことより、楽しい現場のことを楽しく日記に書けたらもっと楽しいよねっていうだけの話かもしれない。(病まないための思考メソッドとして……)
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