羅列型ニュースサイトは文脈を無視した「なんとなく重要そうな情報」の収集装置であるか

昨日の続きです。ATOK2005の体験版を入れてやや快適です。ところどころ慣れない。
なぜ孫引きは良しとされないのか。「それっぽく」うつるからだと思う。意味というのは文脈のもとで価値を判断される。明日はテストだから「勉強」しよう。きょうは胃がもたれるから「食事」を控えよう。引用するというのは、核を取り出すことだ。その意味をもっとも的確に受け取れるのは、引用者本人である。文脈をふまえたうえで意味を捉えるからだ。引用をみると、第三者にとっても魅力的に思える。いいとこどりというのは、えてして抽象的で、いい感じに読めるからだろう。1を知って10学び3間違える。3間違えるおそれがある。やっかいだ。安易な孫引きの危険性。さて。羅列型ニュースサイトは文脈を無視した「なんとなく重要そうな情報」の収集装置であるか。ググって情報を集めているときに、いくつものページをみるが、ニュースサイトとして紹介するのはそのうちのわずかである。能動的に情報を捉える姿勢が、価値判断への意識を高めているのか? 断片としての情報を価値判断するのは無茶だ。背景がなければ相対化のしようがない(大きな物語?)。羅列された情報をみるとき、なぜ残したいと思うのか。位置づけがされていないからだと思う。自分で再構築することを前提にググったりする場合は、残さない情報を判断しやすい。文脈のなかから、これを削除しても全体としての情報が成立すると判断できるからだろう。ところが単発の情報に接する場合は、ほかの情報とのつながりがない。位置づけが不明というのは、不安定ということだ。ネットワーク型の記憶に落とし込めない。比較による情報価値の判断ができない。ゆえに、残すべきか否かという価値判断をおこないにくい。分子は安定している。単発の情報を捉えるときは、それを位置づける背景をつかむのがよい。それが自分のよく知っている分野ならば「プレリード」をおこなえば事足りる。そうでないなら、ググるのがよい。そうやって位置づけをつかみ、その情報が価値あるか否かを判断する。てとさんでいう「みえないいとでつながっている」。本当につながっているか、本当につなげられているか! 「みえない意図」なんだから、それを知るのは情報構築者のみだ。ネットワークは意味でつながる。しかし、すべてが等価というわけでなく、なにか大きな背景はあるべきだと思う(くだらないコミュニティなんかがわいてくるかもしれないが。それは別の話だけれど)。「きょうはこれらの記事をリンクします、のと、きょうはこれらのサイトから記事を集めました、の違い」え、忘れました。