山田ズーニー『おとなの進路教室。』

自分の文脈というものをさいきん意識する。問題意識や選択肢と言い換えてもいい。それを解決するため、という視点でみたとき、さまざまな情報源をスマートに、かつ深く捉えることができる。自分にスッパーンとハマるのだ。
とても好きな文章がある。

アンカテ(Uncategorizable Blog) - 三つ子の魂が不惑を越える
「先生」と言うのは、「自分のこういう記事にこういう言及をした人がこういう本をこういうふうに読んでいる」という情報です。つながりが自分から始まってるから、その本の意味がスパっとわかってしまうんです。

僕はまだこの言葉をつかめているとは思わない。けれど、すこしだけ理解に近づいている気がする。



考えること、書くことは、それだけに留まらない含蓄をもって一体と成す。それこそを自分の文脈と言ってもいい。あるいは、ひととの関わりのなかにおける自分、過去から成り未来に向けて存在する自分。そういったものを意識したとき、小手先のテクニックに囚われることの愚かさを実感する。逆に、深く遠いものを見据えたアドバイスを、そのような小細工と同一視していた浅はかさを。
ひとにはそれぞれの歩みがあり、可能性がある。我らのあり方を問う言葉は星の数をもっても尽くしがたい。だから「コミュニケーション」や「文章術」といった最大公約数的な言葉に還元される。その名で示されるテーマ自体も有意義ではあるが、字義通りに捉える限りで大切なものはみえてこない。そんな大切なものが、すこしずつみえてきた気がする。
もうすこし卑近な言い方をしよう。要するに、僕はまなめさんが山田ズーニーさんを強く推す理由を、ぼんやりとしかわかっていなかった。僕のなかで芽生えてくる問題意識を通して、まなめさんの文脈を仮想し、その意図をより深めることができた。その意味で、問題意識とは、問題という字面とは裏腹に、とても活力にあふれた言葉である。

黒板ぽ - アクセス数から得られる喜びと自信で取り上げた山田ズーニーさんの言葉に「人は本当に自分の思っていることを表現できたとき、内的喜びを感じる」というものがあります。どううでもいいけど、まなめはうすの過去ログ消えてるwww
表現とは自分と向き合うことだ。けれど、社会という枠のなかで自分を捉えたとき、自分は「みなされる」存在である。その結果は、しばしば「本当の自分」とは遙か彼方にある。では、自分をもつこと、自己主張することは無意味なのか?
そうなのかもしれない。そう考えることもできる。
意図したとおりに他者を騙せないからこそ、自分を信じることだってできる。

『おとなの進路教室。』p.226(「読者のリエさんからのメール」より)
人前に立ち、何かを出すことは、その自分が死ぬことなんだと思います。
それまでの自分のものでしかなかった思いを、人前に出して問うことは、その思いの死です。



『おとなの進路教室。』第2章における「仕事と勉強」の話はすごくおもしろかった。カネになるから仕事! 当たり前のことだけれど、すごく重圧を感じる言葉である。仕事。自分のもっているものは、カネになるか? どうすれば、カネにできる? いまの僕には理解できない。仕事にしあわせを見出すつもりなら、避けては通れない問いである。
逆に、「勉強」に近い価値観でうごく仕事が現代に発展しているのはおもしろい。そう狭くない可能性、僕もそういう方面に進むことは考えられる。そのうえで、勉強と仕事のあいだにどう線を引いて、仕事に向き合うかというのは、重要な問いになるだろう。

『おとなの進路教室。』p.122
「いまのAさんの、あの発言に、千円!」



――で、僕は何がやりたいの?
詰まった言葉は、どこに落ちているのだろう。
おとなの進路教室。

おとなの進路教室。

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