アレグザンダー祭りに参加しました!

アレグザンダー祭りに参加しました。
刺激を与えてくれた登壇者のみなさん、貴重な場を提供してくれたスタッフのみなさん、ワークショップでお世話になった班員のみなさん、誘ってくださった@takkanmさん、どうもありがとうございました。
ナイスまとめ→Togetter(トゥギャッター) - まとめ「アレグザンダー祭り」
当日のTwitterログ(朝食おいしかったです^q^)
ひとまず、一番印象深かったことを書きます。

パターンは体験より出でて体験よりなんとか

笹川さんのワークショップで似顔絵を描くことになりました。中学校の美術の授業以来です。そもそも絵を描くことが苦手なので、似顔絵なんて二度とかきたくないと思いました。いくらペアの女の子がかわいらしくても、能力のみすぼらしさを強調するだけです。そもそも図工とか美術なんて学校教育に必要ないとすら思います。こんな授業は芸術嫌いを増やし、そんなひとに与えるダメージは人権に対する侵害です。たぶん絵を書くのが楽しくないわけではありません。ポケモンのイラストを模写して遊んでいた覚えがありますし、その絵を父親は褒めてくれました。しかし構図を考えることや対象の特徴をうまく表現するやり方なんて想像できません。それが授業という場で強要されることがどれだけつらいかを、そうでないひとは想像できるのでしょうか。
先日、ラジオ局ではたらいているかたを招いた講義を受けました。あるお店のキャッチコピーを考えるグループワークに取り組みました。ラジオCM向けのキャッチコピーを100字程度で考えるというものです。あらゆる発言を140字以内に収束させるTwitterユーザとしては力を発揮すべき場面かもしれませんが、購買欲を煽る狙いすました文句を考えることが苦痛であることは想像できるでしょうか。単に恥ずかしいだけかもしれません。みんなでわいわいできればたしかに楽しいかもしれません。しかしセンスがないと自覚することに努力するほど勇敢ではないのです。こんなに途中退室したいと願う授業はありませんでした。
似顔絵、と聞いたときの第一印象は「はずれ」でした。「あたり」かもしれません。「また(キャッチコピー的なアレ)か」でした。体験が重要であるのはわかります。しかしやりたくないことはやりたくありません。「体験しないとわからない」という言い訳は、わからないひとにとって凶器になる言葉です。似顔絵、と聞いた会場の反応は、ややどよっとしたように感じました。ああ、やはりみなさんも似顔絵を描くなんて抵抗があるのだろうな、とすこし気が紛れました。そして笹川さんは「やり方を教えますから」と励ましました。なんのことだか想像がつきません。この一言に「もしかしたらだいじょうぶなんじゃないか、いやまさか、いや」と。
やり方は鼻を描くことから始まりました。この日記はワークショップではないのでもう種明かしをしますが、これは松本キミ子さんのキミ子方式にアレグザンダーの理論(15の幾何学的特性)を併せてアレンジしたものらしいです。似顔絵を描くことでセンタクリング・プロセスなるものを体験していたのです。
演習では笹川さんがプロセスを一個ずつ説明しながら進めていきます。どこを中心に何から描き始めるかまで指示されるのであまり悩まずに描くことができます。たとえば鼻の位置を気にしながら目の上側のラインを描きます。下側のラインを描くのはその次です。もし「全体のバランス考えながら……」なんて言われたら僕はお終いです。プロセスを積み重ねながら、たとえば力強いセンター(鼻)を局所的に現れる左右対称なパーツ(目)で補強していくことで、全体として「なんとなく似ている感じ」に近づいていきます。
絵のできはともかく、いや、僕にしてはよく描けたとは思うのですけれど、似顔絵を描くことが苦痛でなかったのはとんでもないことです。パターン・ランゲージは(従来はセンスの問題として片づけられてしまう!)創造的な仕事を助けてくれる道具である(といいなあ)と理解していました。センタリング・プロセスの威力を知ることで、その理解をこころから信じることができました。
パターンは体験することでよくわかるというメッセージもありました。しかし素朴に考えると、体験しないとわからないことができてしまうほどの威力をパターンに期待してしまいます。現にそんな威力をこのワークショップで感じました。いわゆる「体験しないとわからない」とは何かが違う気がします。ふつうは「絵の描き方は絵を描かないとわからない」という意味です。わかりやすく語れませんが、そこにパターンがあるならば「絵の描き方は絵の描き方を体験するとよくわかる」という意味になるのではないでしょうか。
パターンは体験(実践のやり方)を提供してくれます。実践を検証することでパターンは洗練されるでしょう。世の中の(おそらくはまだほんの一握りしかない)パターンは、そんな成果であると思います。僕は努力していません。しかしパターンは体験になります。ならば「体験しないとわからないことができてしまう」という期待は、案外ありなんじゃないかと思います。
「パターンは体験しなくても使える」ことを入り口にして「パターンによって体験が身近になる」ことで前に進み「体験によってパターンをもっと使いこなせる」ようになるというプロセスを思いえがきます。そんな考え方は、僕みたいにセンスのなさにおびえる人間を救ってくれます。だから誤解を招くとしても、パターンにとって体験は重要でないと僕は信じますし、そんな主張をすべき機会も訪れるのではないかと考えます。
締めのあいさつで羽生田さんは、こういうメソッドをソフトウェアの世界にもつくることが大切だとおっしゃいました。難しいことでしょうか。ないのが不思議にも感じます。案外つくれるのではないでしょうか。でも意識しないとつくれません。意識とか理解とか納得はパターンや方法の宿命ですね。だから一体感がある。前に進んでいこうという一体感。そんな一体感をオブジェクト倶楽部というコミュニティに感じました。