暗黙知の暗黙っぷりについて
暗黙知の暗黙ってなんだよっていうことを自分なりに考える。
暗黙知が何かは西垣さんの著書でたびたび紹介されていて興味をもった(『思考機械』の感想→宮殿が壊れて迷宮になる - 反言子、『集合知とは何か』の感想→暗黙知のリバース・エンジニアリング:全体←部分←部分← - 反言子)。提唱者ポラニーの考えを理解するには『暗黙知の次元』が手頃そうで読んでいるけれど、とりあえず自分で考える。
暗黙である。暗黙知というのは暗黙な知だ。暗黙的な知だ。この暗黙という言葉を、納得できる範囲で言い換えたり分解してみる。まあ飛躍するけれど、暗黙にはいくつかの暗黙レベルがあるのではないかと考えた。
- 意識されないレベル:「知っているということ」「できるということ」が自覚されていない暗黙レベル。「その最中」に意識されない状態、またはそれが一度も振り返られていない状態。
- 言語化されないレベル:広い意味で言語化(≠文章化)されていない暗黙レベル。たとえば脳内で言葉が響いていない、表や階層構造のような図式化されていない、ああすればこうなるという法則が発見されていない、状態。
- 記述されないレベル:広い意味で記述されていない暗黙レベル、すなわち脳内ではある程度言語化されていたとしても、それが他人に知覚不可能である状態。
またそれぞれのレベルにおいて、そのレベルは突破可能であるか、またどれくらいそれが困難かという観点が出る。たとえば、
- 意識できない知:たとえば(あくまで、たとえば、だが)「神の意志」
- 言語化が難しい知:たとえば(めんどくさい)
- 記述するのがめんどくさい知:たとえば(めんどくさい)
などが思い浮かぶ。