はじめから理解できることは学べない

とある授業で先生の話を聞いていた。ぜんぜん理解できない。理解できないのにうきうきしてくる。
理解とはなんだろうか。違和感がないこと。限られた情報を一定のルールにもとづいて展開できること。自分の言葉なるもので情報を換言できること。理解は展開・換言という論理的・言語的な側面が不可欠である、なんて言えるかもしれない。もっと原始的で直感的な、そうか!とかユーリカ!とかそういう感覚こそが理解かもしれない。
理解できないことが、自分にとって新しいことなのでは、と思った。はじめから容易に理解できることは、なぜか新しくない。適切なルールセットをすでに入手しているからだろう。でも、まったくわけのわからないことはおもしろくない。問題にすらならない。
ある程度わかった!気がして、違和感をもちつつ、情報の断片、ルールの片鱗をつかみながらも、うまくかみ合わない状態で言語化もままならない、そういうとき、わからなくてわかって気になって、新しいことを学んでいる、という気がする。
厳密なルールセットにもとづく言語化の過程そのものである、プログラミングの初歩的な学習だが、あまり学んでいる気がしない。けど、たまに新しいことをやっている感触がある。サンプルコードを打ち込むことに何の意味があるのだろうか。単純に、時間をかけて作業すること。また、感覚をつかみとること。
ルールセットの獲得は勉強かもしれないが、人間が新しいことを学ぶということの本質ではない感じがする。新しいと感じるのは、すでに自分が用意してあるルールセットの矛盾、つまり新規性との差異。当たり前だけれど、新しさには古さが対立しなければならない。
じっくりと考えながら、ルールを参照しながら、コードを打ち込んでもいい。それがていねいであればあるほど、いまもっている、感触をもつルールは、手から離れていく。頭をからっぽにして考えなければならないほど、アリエナイ世界に歩み寄ろうとしているわけでもないだろう。