表示枠という近代フレーム

ダイバーシティというもののそれ感やこれ感をフィクションのシーンから切り取る話のつづき。

境界線上のホライゾン」のアニメ第1話が好きで、クラスメイトたちがわちゃわちゃと街を駆け巡っているところが、はー、ダイバーシティ。表層はバラバラなのに、それらがなんのこともなく調和しているっていう不自然な安定感の自然さが、自分のダイバーシティの想像輪郭になる。

この作品の「表示枠」がユーザーインタフェースの1つの形態として好きで、これって単なるディスプレイみたいなマン・マシンのインタフェースのようである一方で、物と空間とのインタフェースや、エネルギーと力とのインタフェースにもなりうる。そうなるとこのインタフェースがむしろ現象の本体であるように見えてくるところがおもしろいです。たとえば表示枠によって魔術のエンドポイントが可視化されることで、表示枠そのものが魔力の源泉のようにみえてきます。表示枠によって現象が可視化されるという認識ではなく、表示枠が現象に溶け込むわけですね。

というかこれは実際に僕がやっていた勘違いで、表示枠ってもっと物体的でエネルギッシュなものと思っていました。ところが調べみると表示枠は「物理衝撃を加えると割れる」らしくて、やっぱりただのディスプレイ装置っぽい。ただ、そんなことはどっちでもいいわけです。どっちで認識しても現象は変わらないので。

「障壁」と書いてあります。素朴にみれば「これ」が「障壁」だと思うんですが、たぶん障壁はこの「障壁」の前かあるいはそれを覆うように存在または現象している力だと思われます。表示枠そのものの硬度では障壁としては機能しないだろうからです。ちなみにこの記事の画像はすべて第1期10話のシーンです。

この照準の表示枠(画像手前)だって、「これ」が「照準」のように見えますが、その実体のはたぶん照準として機能する術式(?)であって、表示枠はそのプレゼンテーション層にすぎないはず。そして矢はこの表示枠を割って進むことで(画像奥)、表示枠は透明と化すわけです。べちゃべちゃしないしゃぼん玉ですね。ちなみにこの前のシーンで敵の弾は(味方による)「追尾」という表示枠を割って通っており、その術式とも連携しているはず。

この、衝撃で割れるというのは衝撃の知見で、気にして見てみると純粋に映像演出としてかっこよい。さきほどのように普通に矢を射れば表示枠はああやって割れるわけですが、浅間さんがズドンするときにも同じように割れるわけですね。ズドンの圧倒的な迫力の陰で、寸刻のうちに儚く舞い散る断片がえがかれる細やかさにしびれる。

もし表示枠が単なるディスプレイならば「この表示枠いらないのでは?」と思うユースケースもあります。けどわざわざある。そうするとこれらの表示枠の機能は、ハックされまくった物理世界に対するひとびとのための認知フレームなのでは。表示枠ってわりと記号的なUIで、そういう意味では近代的なんですが、それは記号で捉えられないものに記号を重ねて記号処理系に捉えやすくするという機能だからこそではないかと思うわけです。ハックされた物理世界に、それでも我々はヒトなので、「記号も」そこに散りばめられるということに色気を感じます。