『性表現規制の文化史』メモ

性表現規制の文化史

性表現規制の文化史

メモ

猥褻:庶民生活のだらしなさ。
雅・ハレに対する俗・ケ

家:財産相続のため純潔が重要。庶民は家を気にしなくていい。結婚と恋愛は分かれていた。

10世紀からカノン法によって結婚の宗教色が強くなった。

近代 アメリカ フランス 結婚が世俗化
道徳として内面化されていく

性的な行為の規制から性的・暴力的な表現の規制に広がる。
猥褻の基準の具体化、言論表現に該当するか(するなら危険なものか)が議論される。

1970年のアメリカの調査では、成人が同意して(プライバシーが侵されず)性表現に接するには無害だとされた一方、青少年は保護すべきという動きが強まった。

この背景に「自分は悪徳に触れても平気だが、他の人は自分より道徳的・規範的に劣っており、悪い影響を持つと懸念されるものを規制して、他の人々を悪徳から保護すべきだ」(p.178)という偏見があるという筆者の批判。
あるいは「(私は理性的な判断能力を備えていて、少々えっちであっても問題ないけれども、そうでない他の人たちが)えっちなのは、(彼らが堕落頽廃してしまうことになるので)いけないと思います!」(p.183)「というのはいけないと思うのです。」(p.207)

連想

さいきんYouTubeのコンテンツをみることが増えたのだけれど、そこで「えっち」*1とみなされるコンテンツに対する態度をみると、動画が削除されるから、収益化が停止されるから、チャンネルがBANされるから、そのおそれがあるからリスキーである、という畏れがみいだせて、そのコンテンツのその性質が悪いものかどうかという感性が入る以前に、そのコンテンツ自体が無になってしまうリスクをとることを避ける(ことを勧める)態度が前面にあるように思える。アーキテクチャが道徳に変態して内面化していってる感じ。

*1:えちえち、えちち、エッッッ、江戸、センシティブ