きもちわるいもはきもちわるいんだ!という前提で表現の流通を考える

さいきんは過激なテレビアニメが多いので悩む。おもしろいけれど、これでよいのだろうか、と。
親の立場を想像すると、過激な表現によって乱れた判断力を支援するために、レーティングやゾーニングが必要なのだと思う。過激な表現によって親が思うのは「きもちわるい」という拒絶のきもちであって、そんなきもちのわるいものを前にして子どもへの教育上の影響を考察することはきっとできない。ただ我が子を汚いものから遠ざけたいとだけ思うはずだ。ひとがそのような美醜感覚をもつことは仕方がないし、その感覚に基づいて子どもを守ろうとすることも、思いやりのあらわれだと思う。しかしいってみれば、所詮その程度だ。私にとってきもちわるい、きもちわるいものは避けたい、我が子は大事だ、だから我が子からも遠ざけよう。要するにご本人の美醜感覚から反射的に行動を決めてしまっているだけで、それがよいか、よかったかどうかなんて反省することがあるだろうか。たとえばメディアが人格形成に与える影響だかなんだか、小難しい話に耳を貸すのは、そういう反省がそもそもにできるひとだけだ。
なぜ僕は悩むのか。その過激な表現になぜ注意がとまるのか。僕は、僕にとってその表現はきもちわるくなくむしろ心地がよいものである、と自覚する一方で、なぜかそれが、きっとたくさんのひとをきもちわるがらせるものである(たぶん?断じて?それは「教育上の影響」を考察したものではない!)、という予測ができる。実際のところ、僕だってすこしは「きもちわるい」と感じているのだろう。本当に、かどうかは、わからない。
その「きもちわるい」と多かれ少なかれ感じさせる表現に対して、僕は、それが単に「きもちわるい」からよいのか悪いのか、はたまた「興奮する」からよいのか悪いか、そして「教育上」という難しい問題はともかくとして、自分のこころのためにその表現をどう扱うべきかを反省できると、僕を信じたい。これ以上を僕が切実に考えるのは難しいけれど、「教育上」の問題というのは、親として子どもといっしょにそれができるかどうかにかかっているのかもしれない。
しかしこうしてみずから反省を負う一方で、表現された作品の流通にまつわる問題というのは、やはり感覚的な「きもちわるい」というきもち、そのレベルから脱することはとても難しいだろう。科学的にみちびかれる「教育上の影響」と、いまその場でそのひとが感じる「きもちわるい」というきもちは、天秤にかけられるものではない。極端な想定をしてしまえば、ある過激な表現でたくさんのひとが吐き気を覚えました、しかし犯罪の件数は統計的に違いが認められなかったので問題ありません、というのは滅茶苦茶だ。
僕は「きっとたくさんのひとをきもちわるがらせるもの」のなかにも好きな表現がたくさんあるけれど、そういう表現によってひとが傷つくことは避けるべきだと思う。そのためのアプローチを大ざっぱに分けるなら、表現へのアクセスを制御することと、表現に対するひとのこころを制御する二つである。どちらも、見方によっては易しくも難しくもある。
作品の流通を規制することは、それを裏づける法律があれば容易だろう。しかし細かいレベルで、いうなれば、「本当にその表現を求めているひとだけがその表現にアクセスできる」という制御を実現するのは、とても難しい。ゾーニングのような空間的な問題としても、情報システムの問題としても、難しい。その表現がどのような表現かは、実際にその表現に触れないと判断できないからである。これを支援するのがレーティングだ。意地悪な言い方をすれば、レッテル貼りだ。しかし「暴力表現がある」というのはなんと大ざっぱなレッテルだろう。かといって(ここでは僕の思う「過激すぎない」言葉を遣いますが、それでも「きもちわるい」と思わせたら申し訳ありませんが)「レイプ表現がある」などとレッテルを細分化していくと、そのレッテル自体が過激な表現になって、アクセス制御としての本分を失ってしまう。(ところで、きもちわるくない表現にしか触れない仕組みを目指すのは、潔癖症的で、行き過ぎているかもしれませんね。)
こういうシステムの設計、実現が必要になるアプローチと違って、ひとのこころを制御することはこの身ひとつ、椅子に座ってできることなので、簡単なのではないかと僕は思ってしまう。これを難しいと想像してしまうのは、失礼に感じてしまう。そう考えることが傲慢かもしれない。こころを制御するするには、自分で考える、教育、宗教、医療などのアプローチが思い浮かぶ。考え出すと難しい。「自分で考える」でどこまでいけるだろうか。
なぜ「僕は「きっとたくさんのひとをきもちわるがらせるもの」のなかにも好きな表現がたくさんあるけれど、そういう表現によってひとが傷つくことは避けるべきだと思う」のか。いわゆる良心の呵責、あるいは懺悔のきもちかもしれない。「きっとたくさんのひとをきもちわるがらせるもの」が好きでごめんなさい、許してください、などと思う。「おもしろいけれど、これでよいのだろうか、と」思うことも、同じようなきもちだ。けれど逆にいえば、たとえ「きっとたくさんのひとをきもちわるがらせるもの」でも、僕が好きなものを、僕は好きなのだ。