個別な印象は偶然に過ぎない

ライトノベルにおけるイラストが作品の個性にどう関わるかっていうことを過去に二回ほど書こうとして頓挫しておる。だいたい書きたいことは「僕はラノベのイラストが好きだ」「イラストで作品の印象が決まるのは仕方ない」「ある作品について、イラストそのもに対する志向が強すぎるのを自覚した」「その作品をひとつの言葉で表すとして、それはイラストの表すひとつの言葉と重なる」「ならば僕はこのイラストが好きなのだ」「あいまいだった個性が粋を増した」「と同時に、そのイラストレータそのものに興味が移り、その個性に広がりがでた」「個性の細分化と広範化が同時に起こったのがおもしろい」(個性という言葉が不自然な気がしてきた。要するに、僕の好きを好きたらしめる、ある作品の本質部分、ということ)「しかし、その広範化によって、もとの作品を表すひとつの言葉とずれが生じた」(個性が旅立った)「もとの個性、つまり作家と絵師によるあいまい性というのもまた独特で貴重だ」(それぞれの個性は奇跡である)「作品に目を向けること、表現者に目を向けること、さまざまな見方によって個性は分裂したり変態したりする」

いってみれば

表現者」とそれによる「表現」の関わりっていう問題だよな。表現を網羅すればその表現者がつかめるのか。逆に、ある表現がその表現者の本質を突くっていうこともあるんじゃないか。とか。(文章とイラストによる作品のあいまい性(主観としての全体性)をのけて考えると)

推敲

「個性の細分化と広範化」という言い回しに言葉の綾を感じた。あくまで「表現者の区別」をおこなって、区別された表現者に「別な一面をみた」という意味なので、こうふうに矛盾めいた書き方で気取るのは好ましくない。(こんなこと書くな)

うーん?

とらしうくんにブクマされて嬉しくなったので読み返したみたけど、「独りであることをひとに伝えたい矛盾」っていうは、さいきんよく思う、実時間と対象時間のずれに関する問題だよなあ。言葉で語りたい状況があるとして、その状況は言葉で語るという状況によって上書きされてしまう。そうなると、表したい時間とは別な時間に身が置かれてしまって、あれ、いまはいつだってことになる。実時間をそのまま表現するには「おれの姿をみよ」ってことになるんだけど。この矛盾っていうのをもうちょっと説明すると、独りであるという現在をひとに伝えようとすると、ひとに伝えるという行為が現在となって、語りたい意味内容が抹消されるっていうこと。なんかそうやって考えるとたいていの表現がオカシイことになってしまうような。実際のところ、何か興奮していて、それを語ろうとするとき、ひとにライブ感は十分に伝わるものだけどね。だからおれの悩みのほうがどっかオカシイ。

あれ?

読み手というものを想定すると解決するような。ある表現を受けた読み手は、その表現内容をその場で再生する、と考えれば、言葉はライブだ。もうそれでいいや。

なんか

考えれば考えるほど単純な哲学(=過去に考えつくされた答えのある問題)に収束されていくようで忍びない(おれの悩みはおれだけの悩みでありたい)。言ってみればまあ、独創的な悩みをもちたければだれにも意味のわからないことを考えればいい。うにゃ、それってただのトートロジーか。