情報の流れ

流れっていっても某話題とは関係なく。
記事のクリップをしているのですが、カテゴリをつけています。よく用いるカテゴリは定まっているのですが、たまにどういう表記がふさわしいかを考えます。うーん、と考えて、「価値」というカテゴリをつけました。そのあとの記事でまたカテゴリをどうするかちょっとひっかかったのですが、まもなく「価値」と打ち込みました。
遣った言葉、意識した概念は風通しがよくなる。思考のなめらかさってことがらに対する弁みたいなものに分け込まれるあんばい。放(ほう)った弁は閉じてしまいには癒着してしまう。それをこじ開けるのはちょっと大変で、あ、なんだか表現がいやらしいなあ。まあ、思考のあり方は生々しいのだ、なんてこじつけるとしっくりとくるのですが。
これもまたありがちな教訓ですが、使い込むと馴染むってこと、また、解釈が姿勢に依存するってことやねん。姿勢っていうのは自分のことね。文脈っていうのは内的、対象系において閉鎖したいわば必然だけど、それに向かう僕は外部で不確定。テクストってもんを拝むならまだしも、日常、意味のあり方が気ままに動くのは仕方ない。むしろ、ちょっとわかりやすいバイアスがあったほうがスムースなくらいだ。ダミーってほど空っぽじゃないけど。さ、開放。

構成素分析不可層

タグの話に補足。
本文の内容を言い換えるに、「一冊の本」と「一つの記事」に対して同じようにタギングを試みることはできない。べつに個人がウェブに書くことは拙いっていうわけじゃなくて、単に量の都合から。さらにいえば「一冊の本」に対する「一つのタグ」、が、「一人のひと」に対する「一つの記事」、に、対応している。つまり、タグというものを考えると、その微細で単純な姿から、貼る対象はより大きく多彩なものでなければ噛み合わせが悪い。つまり「どこからどこに対してタグをみるか」っていう問題がわりと重要やと思うん。
それと、タグといえばやっぱりその集積であるフォークソノミーなんて発想が思い浮かぶのですが、ここでは置き去りにしていますね。それもまた一考に留めておきたいです。