情報の流れ

流れっていっても某話題とは関係なく。
記事のクリップをしているのですが、カテゴリをつけています。よく用いるカテゴリは定まっているのですが、たまにどういう表記がふさわしいかを考えます。うーん、と考えて、「価値」というカテゴリをつけました。そのあとの記事でまたカテゴリをどうするかちょっとひっかかったのですが、まもなく「価値」と打ち込みました。
遣った言葉、意識した概念は風通しがよくなる。思考のなめらかさってことがらに対する弁みたいなものに分け込まれるあんばい。放(ほう)った弁は閉じてしまいには癒着してしまう。それをこじ開けるのはちょっと大変で、あ、なんだか表現がいやらしいなあ。まあ、思考のあり方は生々しいのだ、なんてこじつけるとしっくりとくるのですが。
これもまたありがちな教訓ですが、使い込むと馴染むってこと、また、解釈が姿勢に依存するってことやねん。姿勢っていうのは自分のことね。文脈っていうのは内的、対象系において閉鎖したいわば必然だけど、それに向かう僕は外部で不確定。テクストってもんを拝むならまだしも、日常、意味のあり方が気ままに動くのは仕方ない。むしろ、ちょっとわかりやすいバイアスがあったほうがスムースなくらいだ。ダミーってほど空っぽじゃないけど。さ、開放。