『記憶がウソをつく!』

養老孟司×古館伊知郎『記憶がウソをつく!』
バカの壁」で有名な養老孟司氏に、珍表現を駆使する実況アナウンサー古館伊知郎氏の対談という、なんとも奇妙な取り合わせの本です。そのためか、脳や記憶というカタそうなテーマにも関わらず、読んでいて大変面白く、すんなりと読み進めることができます。

記憶と萌え

なんと、古館伊知郎は“眼帯属性”だった! 「フェチ」と「萌え」を同じ次元で考えていいかは疑問ですが、引用してみます。

本書p.84-87より、強調引用者

古館 (前略)“フェチ”とまでは行っていないけど僕は眼帯が好きなんですよ、女性の。正確にいうと眼帯をしている女性が好きなんですけど、なぜそうなのかさかのぼって考えたら、昔こういうことがあったんです。

(中略)中学二年のときに、好きだった女のコにフラた記憶がものすごく強烈だったせいなんですよ。(展開がトブけど、中略)それで、彼女が待っている屋上までホップ・ステップ・ジャンプで上がっていった記憶もあるんです。

屋上は金網で囲まれててね、(中略)その金網を背にして、女のコが眼帯して立ってたんですよ、セーラー服で。たまたま、モノモライでね、眼帯して立ってた……。(中略)開口一番、「いい加減にしてくれる?」ですよ。(中略)眼帯だから、なんか怖いんですけど、とにかく眼帯越しにそう言われたんですよ。

(中略)結局、からかわれていたんですよね。(ムリヤリ、中略)だから、それまでは眼帯に対してニュートラルだったのが、この体験のせいで眼帯に対する恐怖感と憧れが強烈に植えつけられちゃったんです。(中略)それでいまだに女の人が眼帯してるのが好きなんですよね。嫌いになっても不思議じゃないのにね。初恋がらみということで、ドラマチックにしたいんでしょうね、きっと。嫌いってなるとそれは嫌な記憶になるんだけど、これは、時がたては面白い話になるだろうし、いい思い出ということにしたいんだろうなと。

萌えの属性というものは、自分の過去の経験が元になっているのではないか。さらに、その過去の経験には「逆行性」があるのではないか──ムリヤリですが、このような仮説が思い浮かびました。

つまり、“萌えの属性は、過去の異性との関係における忌むべき経験が、反転衝動して嗜好に表れる”、という性質があると考えます。これを元にして、乱暴に理論を展開すると、以下のようになります。

ロリ属性のお兄ちゃんは、子どものころ──つまり周りがすべて「ロリ」だったとき──に、異性(ロリ)との間に嫌な経験があった。そして月日が過ぎ、その記憶の傷を埋めるかのように、ロリに対する蔑みが反転して、嗜好へと変化した。……なんだか筋が通っている気が、しないでもないです。

ただ、スク水や妹となると、話が合いそうにないですね。それでも、「記憶と萌え」には、何らかの関係がありそうに思えます。

情報と人間

僕は、養老氏の用いる「情報」という言葉に、違和感を感じまくりです。ビンビンです。養老氏は、「情報」を普遍的なものとしてとらえます。それに対し、変わるのは人間の方だ、ということをおっしゃります。僕は、この“情報は変わらない”という考え方が、しっくりきません。

とはいっても、これは「情報」の定義による問題です。一方で、“情報に対する人間のスタンス”という視点においては、僕は養老氏に大変共感を抱きます。

本書p.210-211より

養老 (前略)今の人は知るとか学ぶということを、自分が変わることだと夢にも思っていないんですよ。情報を処理することだと考えるわけです。何かを集めてきて上手に使うことだと思っている。自分の外側で処理することで、自分自身の内面には関係ないことだと。そのあたりに、いろいろな問題があるんだと思います。

つまり、養老氏は“普遍の情報と、変化する人間”というあるべき姿が、逆転して認識されてしまっている、と主張されています。(僕は「人間も情報も変わるものだ」と思っているから、ソリがあわないわけですが、その話はおいておきます。)

情報が「処理」の対象になっているというイメージは、あるような気がします。僕のサイトも含めた、いわゆる「羅列型ニュースサイト」についても、そのようなイメージがあります。かといって、それがイケナイことなのかはわかりませんが、情報が人を変えることは、僕も確かに実感していますし、素晴らしいことだと思います。

情報ってなんでしょう、人間ってなんでしょう、そしてその関係は。僕は、まず事実(ここでは「物質とエネルギーの物理的な組み合わせ」と定義)が普遍的に存在し、その事実を認知し、解釈した人間による生み出される“他の人間に認知されうる事実以外の何か”が、情報なんだと思います。