書きかけシリーズ10.個人サイト論の魅力はその素朴さにある

個人サイト論というのは、「個人が個人サイトにおいて個人サイトを論じる、そしてそれを個人が読む」という素朴な構造の上に成り立っています。多くの個人サイトは「趣味」とか「自己満足」で運営されているものであり(と論じらたりもする)、そこで論じられることは、学術性よりも娯楽性が重んじられます。実際に、うまく感情をまじえて読み手の共感を得るようなサイト論は流行りやすいです。
「個人サイト論なんていうけど、『論』と呼べるほどの価値などない」という批判は、実にそのとおりです。僕は、この論としての素朴さが、個人サイト論の特徴であり、ひとつの魅力であると思っています。
正統派の「論」を論じようとすると、僕たちは窮屈さを感じてしまいます。知識や経験、そしてそれを文章にする能力、また建設的な議論を交わす意識が必要となります。「趣味」「自己満足」によって支えられる個人サイトで、これらを満たした「論」が盛んに交わされることは考えにくいです。
それでも、人は何かを論じたいと思うときがあります。個人サイトを運営していると、さまざまな疑問が見つかります。ときにはその疑問自体が個人サイト論となります。しかしたいがいは、そういった疑問もやはり素朴なものです。サイト運営者ならば誰もが一度感じるようなことで、それについての論も、おそらく出し尽くされています。(いま書いているこの文章も既出かもしれない)
たとえば、「なんでこんなサイトをやっているんだろう」、「どうすればサイトの個性を出せるんだろう」という疑問や、それについての論です。これらは、なんの変哲もない人間が、なんの変哲もないサイトをやっていて感じる、素朴な疑問です(ものすごい変人が、とんでもないサイトをやっていても感じる、素朴な疑問です)。
このような日常の平凡な日々で自然に生まれる疑問だからこそ、個人サイト論は価値を持つのではないでしょうか。サイト運営者に限っていえば、これらの素朴な疑問はとても共有しやすいものだからです。誰もが思うことだからこそ、誰もが平等に論じるチャンスを持っているのです。
さらにいえば、これらの疑問は根源的であるから、人はよけいに論じたくなるのではないでしょうか。自分が賢そうな気になるからです(実際に賢くなることもあると思う、たぶん)。
根源的というなら限りがありません。「世界ってなんだろう」「なぜ生きるのだろう」「本当の自分って何者なんだろう」と、いくらでも疑問は湧いてきます。しかし、これらは素朴さに欠けていると思います。むしろいかにも哲学ちっくな論題で、正統派の「論」でなければ通用しません。

(後略)

(後記:なんか、後半がわけわかんないね。いまでも、僕の脳内では「素朴サイト論」という区分があります。はじめは「素朴」でなく「陳腐」という言葉を遣っていました)