書きかけシリーズ9.解消の哲学と根本思想

(メモ)
・哲学は解決→解消
 解決→sin30゜を単位円や三平方の定理
 解消→直結する
・悩み羅列
 ・英語の一回目
 ・読書の楽しみ
 ・得ようとして失った感
 ・テストの当日に起きれない
・根本思想
 ・そうだ、論理的に考えよう
 ・科学の方法論→合理性
 ・根性論を解消するためなら根性論も……っておい!?


(文章)
どこかで見たんですが、「哲学が目指すものは解決ではなく解消である」という考え方があるようです。解決と解消の定義がよくわからないので想像になってしまいますが、今日はこれについて考えてみようと思います。
僕のイメージする解決とは、物事を筋道立てて理解することです。同じく解消とは、過去の経験やその場の体験から理屈抜きに実感がもてること、あるいは実感する暇すらなく暗に納得している状態です。
たとえば数学で「sin30゜」について習います。まずsinの定義から入って、単位円を描いたり三平方の定理をふりかえったりしてsinとはなんぞや、それが30゜ってなんやねん、ということを理解します。これによってsin30゜の値が導けるようになります。これが解決です。
しばらく学習していくと、「sin30゜ = 1/2」と即答できるようになります。(僕の場合)このときイメージしているのは単なる三角形だけであり、sinの定義やそれぞれの辺の比については意識していません。また、三角形をイメージしなくても、なにも考えずに「sin30゜ = 1/2」と答えられるようにもなります。このとき、(僕の中で)「sin30゜」という問題が解消しているといえます。
身の回りには多くの問題が存在していますが、学ぶことや考えること(または忘れること)により、それらはしだいに解消されていきます(忘れた場合は解消なのかしら)。そうしてまた新しい問題をみつけては、発見を繰り返していきます。これが学習や成長といったものの一側面でしょう。
最近、解消したいと思っている事柄。

・小説などを読む「楽しむ読書」に気負ってしまう。「読み逃したところがあったら、楽しみが半減するかも……」と思ってしまい、軽い気持ちで読み始められない、したがって楽しめない。何回も読むことではじめて楽しめることもあるのに。

・先生曰く「英語の勉強ははじめて読む文章への取り組みが大事」だから、はじめて読む英文に気負ってしまう。「これを適当に済ませたら学びの源泉を失ってしまう……」と思ってしまい、軽い気持ちで勉強に入れない、したがって勉強しない。最終的に何を学ぶかが大切なのに。

・得ようとすることで失ってしまうこともあるのではないか。考えていたのに文章に表せないこと(いや、書くということは+αであるから失っていない)。テストの当日は早起きできない、どうせだらだら(サイト巡回)するだけだから(いや、テスト勉強よりサイト巡回の方が価値がある、あるいは起きている限りテスト勉強する可能性は残っている)。「+αなんだ」「可能性を得ているんだ」と理屈付けられるが、どうしても失ったんだと感じてしまう。

・自己言及の渦に飲み込まれる。集中しはじめてきたかなってときに「どのように集中しはじめたんだろう」「集中ってなんだろう」とか横道にそれまくる。ただ無心になろうとしても「無心とはなんぞや」と思い、ぐるぐる。そんなこと気にするだけ無駄だけど、「無駄なのか?」と思い、ぐるぐる。

・すべての学びに価値をもたせたい。学校から学ばされるのは嫌だ。どんなことにも根性論を用いたくない。すべて自分の興味から行動し、それらの行動に意味を持たせ、そして成果を残したい。根性論からも楽しめることはあり、むしろそちらの方が成果を残しやすいのに。

4はここでは置いておきます。1と2はほぼ同じ問題だし、3もそれに近いものだと思っています。1,2,3はたぶん解決しています。それをどうやって解消にもちこむかというと、実際にやってみるしかない。気楽に読んで楽しみを実感する。気負わず取り組んで学びを実感する。そうやって違和感が氷解されていくのです。つまり、「実際にやる」ことによって、納得できない問題を解消できるのです。
5も同様に解消できます。根性論でも、やってみればその良さに気づけます。しかし、ここで根本思想のずれが発生するのです。
2004/10/14の日記にて、僕はこういうことを書いています。「人はときに論理的に考えようとする。そのとき、人は、論理的に、論理的に考えなければならないのではないか。論理的に考えようと思ったいきさつは、論理的でなければいけない。「そうだ、論理的に考えよう」では、既に論理は崩壊している。頭の中は、既に論理でなければいけない」。

(後略)